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《安全基地》がない子供たち

《安全基地》とは

 親や養育者が子供の《安全基地※》としての役割を放棄していることも毒親の条件だと私は考えています。(詳細は過去記事「自己流毒親タイプ分類」を参照)

※安全基地とは、愛着の絆の形成によって得られる安心感のこと。それは子供は愛着対象者と居ることへの安心感のみならず、次第に愛着対象者がそばにいなくても安心できるようになる。安全基地が確保されると、安心して外界を冒険しようという意欲を持つことができ、対人関係の形成、社会生活を積極的にかつ自発的に行うことができる。

アメリカの発達心理学者メアリー・エインスワースによる定義、参考:『愛着障害』岡田尊司著

 親が不安定ゆえに子供が傷ついたときにフォローできない、あるいは逆に子供を責め立てるような状況は、《安全基地》とはとても言えません。そうなる原因は親が毒親であること、深刻なDVやモラハラ問題、他の家族問題を抱えていることが挙げられます。
《安全基地》がない子供は健全な自己愛を育めず、社会生活や対人関係を煩わしく感じてしまいます。試行錯誤や責任が伴う言動を忌避するようになると、健全な社会生活を営んだり、他人と信頼関係を築くことは困難を極めます。具体的には、

・信頼できる友人や恋人ができない
・熱中できるものが見つからない
・いじめを受ける、または巻き込まれる
・周囲から「取るに足らない」と思われて不当な扱いを受ける
・自信がなく常に自分自身を偽っている感覚を持つ(インポスター症候群)
・自分自身を大切にすることができない(健全な自己愛の欠如)

筆者作成

といったことが起きると考えられます。


最悪の事態──子供の自殺

 私は以前「毒育ちが語る『IT─"それ"が見えたら、終わり─』」内で「ペニーワイズとは、子供の希死念慮による行方不明、自殺、事件事故に巻き込まれる事象のメタファー」と述べました。そして以下のように続けています。

「そんな生きづらさや息苦しさを感じていても、彼らは子供ゆえに親や家から離別することも自立することもできません。早く大人になりたいと願えど、時間が経つのが恐ろしく長く感じる── 「いっそ死んでしまった方が楽かもしれない」そんな悲痛な叫びを秘めている子供たちに、ペニーワイズは手を差し伸べます。個人的な解釈ですが、子供の自殺、行方不明事件、失踪事件、誘拐事件、その他痛ましい諸事件の一部は、子供が隠し持っていた希死念慮に気が付けなかった親の責任です。子供の希死念慮は大人のそれよりも何倍も強く、そういった事件、事故を現実にしてしまう魔力があると考えます」

「毒育ちが語る『IT─"それ"が見えたら、終わり─』」より

 子供が隠し持っていた希死念慮に気が付けなかった親は、裏を返すとその子供が親に希死念慮を隠し続けていたとも言えます。死にたいと思うほど辛い胸の内を、どうして親に言えなかったのでしょうか──まさにその状況こそ、親が《安全基地》としての役割を放棄しています。子供たちが親に隠していた、と言うより親に言えなかったものとは、何も希死念慮だけではありません。学校で傷ついたこと、部活やクラブで辛かったこと、対人関係で悩んでいること、何処となく自分に自信が持てないこと、漠然とした不安感、先の見えない進路や将来──その不安やストレスを親の前では“飲み込む”子供たちは、様々な方法で“消化”しようとします。しかし《安全基地》がない子供たちは不安やストレスをなかなか“消化”できず、それらは彼らの胸中に澱みのごとく溜まっていきます。その澱みは、いずれセルフカットをはじめとした自傷行為、摂食障害、セルフネグレクト、依存症、愛着障害、パーソナリティ障害を引き起こす可能性があります。親や周囲の大人が、その状況に気が付いてその問題と向き合わない限り、子供は不安やストレスを“飲み込み”続けるのでしょう。 それらが重篤な“消化不良”を招くと、その子供は命を絶つ選択肢さえ厭わなくなるかもしれません。

 極端かもしれませんが、家庭や学校に居場所を見失った子供たちはいっそのこと非行に走っても構わないと私は思うのです。もちろん非行自体は決して褒められた行為ではないですが、これは自分で世界を広げようとする自衛行為であり、居場所がない世界で“いい子”を演じ続けて「緩やかに自分自身を殺す」方が危険だと私は考えるからです。

《安全基地》の役割を放棄している親は、子供が辛い目に遭っていても「持ち家だから簡単に引っ越せない」「忙しいから話を聞いてやれない」「世間体が悪いから無理矢理登校させる」などの言い訳をします。私からすると、「何寝言言ってんだ、てめぇの歯ァ抜くぞゴラァ!」って話ですよ。それらを言われた/された子供は、「自分の安全<他の物事(家、仕事、世間体)」という図式から自分の価値などその程度と思い込んでしまうからです。子供は親に頼るしかないのに、その親に見放されたと同然なのですから。また私がもっとも根が深いと感じるのは、アダルトチャイルドの(傾向がある)子供が「親に心配させまい」と口をつぐみ、自殺が起きてしまってから親が子供の傷を知るケースです。子供が親へ配慮し過ぎている時点で親は《安全基地》の役割を果たしていません。「親に心配かけまい」と背伸びしている子供を、“いい子”だ“できた子”だと褒めて悦に浸る親の目ん玉と脳味噌は腐っとるんかと。法律と常識の範囲内で好き勝手したり、喜怒哀楽を爆発させたりできることは、子供の特権です。その特権を抑制したり、子供に押し殺させる親は、もっとも《安全基地》の役割を放棄している猛毒親だと私は思うのです。


《安全基地》がないのならば

 映画『万引き家族』の感想でも述べましたが、今の日本社会は根強い戸籍制度から実の親を重視する風習です。つまり親や家族が《安全基地》としての役割を果たせなければ、必然とその子供は《安全基地》を持てない可能性が高くなります。 実の両親が無理ならば、まずは伯父/叔父、伯母/叔母、祖父母、兄弟姉妹、いとこ、その他親戚から探すほかありません。親族内に見出せなければ、《愛してくれる他人》に期待するしかありませんが、現実はそう簡単にいきません。ある程度年を重ねれば、恋人や親友という存在が《安全基地》になり得ましょう。ただ失われた子供時代を引きずったまま、彼/彼女に対して親の代わりのように依存してはいけないと私は思います。対人関係におけるいわゆる「重い」という表現は、相手への配慮や距離感を見誤って丸ごと寄りかかってしまう状態を指すからです。相手から「重い」と感じられてしまうのは、幼少期に《安全基地》を持てなかったり、健全な自己愛が育まれなかったことがおもな原因と言えます。 私事ですが、幼かった私は不安型の毒祖母と回避型の母親の間で振り回された結果、安定した《安全基地》とそこから生まれたはずの健全な自己愛を持てませんでした。私は今までに漠然とした《生きづらさ》に苛まれ、最近は《安全基地》を持てなかったことを何度も呪い嘆きました。恥ずかしながら、友人や元交際相手から「重い」「面倒くさい」「一緒に居て辛い」と言われた経験は一度や二度だけではありません。
 それでも今は少しずつ「自分が自分自身の安全基地になること」で解消しようとしています。母や姉が傍にいてくれたおかげで、何とか立っていられる状態ですが。


《安全基地》は親の使命

 この世に生を受けたすべての子供に対して《安全基地》を備えることが一番の理想ですが、映画『IT』や映画『万引き家族』から非常な現実をひしひしと感じました。同時に《安全基地》がないことを自分の宿命だと受け入れた上で、健全な家庭に育った人たちの背中を見つめながら私は生きていくしかないんだなぁとも思うのです。

 最後になりますが、子供を産んだ以上その子供の《安全基地》になり得るのは、「自分(親)たちしかいない」という使命をどうか肝に銘じてほしいです。いくら辛かろうが、困窮しようが、自分自身が可愛かろうが、それが現実だからです。そして、産んだだけでは親にはなれない──子供の《安全基地》という役割を果たしながら、子供の自立を見届けて初めて親になれると私は思うからです。



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 今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。

 次回は感想文を予定しています。

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