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短編小説「仕事」


 誠に面倒臭い話である。私はタクシーの後部座席に座り、手帳を確認しながら心底そんなことを考えていた。つい最近まで就労をしなかった私にとって、仕事のための移動というのはいつまで経っても慣れることはなく、大変心苦しいものであった。




 
 大学卒業後すぐに就職しなかったのは、数年間を家族の帰るべき家の快適空間維持に費やしたかったからである。しかし、そんな家族思いの私を両親はあろうことか実家から昨年の夏の終わりに追い出した。理由はあまりにも残酷であり、私の告白により、家族に対する印象が非常に悪くなる為、角が立たない程度に柔らかく加工して説明すると、両親が兄夫婦との同居を決めた為である。




 あの日、仕事から帰宅した父は、仕事着であるスーツから部屋着に着替える前に、私の自室の扉をノックした。私は返事をし、相手が父であることが分かると快く部屋へ招き入れた。そして父は部屋に入って早々、「兄夫婦とこれから一緒に住むから、お前には悪いけど出てってもらいたい」と淡々と告げたのだ。その言葉はあまりにも冷たく、実の娘に対し話すべき言葉では決してなかった。その父の言葉を聞いた私はというと、身動きが出来ず一言も発せずにいた。




 私が大学卒業をしてからの夏は、自室のクーラーを全力で働かせ、冬用の毛布にくるまりながらテレビを見る業務に従事していることが多く、その時も毛布にくるまりながらベットに横になっていた。背中に鳥肌が立っていたが、クーラーのせいではないのは間違いなかった。私はその鳥肌を右手で掻くことで、漸く体全体を動かすことができた。ゆっくりではあるが体から毛布をはがしベットの上で姿勢を正した。その姿はパジャマに正座という、今思えばなんともおかしな組み合わせであった。




 「お父さん、兄さん達と一緒に住むのは私も大賛成だよ。でも、だからってなんで私は家を出ないといけないの?」私は素直な意見を父なぶつけた。兄夫婦と私は一緒に映画に行ったこともある。2人の結婚式にも参加したし、仲は悪くない。そんな私をまるで邪魔者みたいに追い出す、その意味を知りたかった。




 「お父さんだって、こんな事はしたくない。わかってくれ」父の答えは俺私が想像していたよりも短く、簡潔であった。それ故、私の心を深く傷つけた。「私がこの数年間、家に居たのは何のためだと思うの?大好きなお父さんとお母さんのためだよ。押入れから毎朝毎晩2人の布団の出し入れをしているのは私だよ?それに、2人の見たいテレビの録画をいつもしてあげてるのも私だよ?」私は2人にいつも尽くしている内容を列挙した。その途中、頬をつたう涙のせいで少しばかりの嗚咽が混じってしまっていた。




 「もちろんお前には大変感謝している、それにお父さんだってこんな別れは辛い。でも、お前は若いじゃないか。実家でくすぶってばかりいてはいけない。お前にはお前の未来のために残りの人生を生きてほしい」父はそういうと、ベットに腰掛け私の左隣に座った。そしてはるか昔によくしてくれた様に優しく右手で頭を撫でてくれた。




 父の懐かしさと安心感を与えてくれるその行動により、私の嗚咽は次第に落ち着いていった。そして父はさらに私を元気付けるための言葉を頭を撫でながらかけてくれた。




 「お前はまだピチピチの50代だ。歳の離れた兄夫婦や私たちの事らあまり気にしないで、その歳まで学んできた事を世のために使いなさい」父の言葉にはある種の覚悟が感じられた。辞世の句、いや今生の別れを想起してしまった言葉に私は押し黙り、父の胸に顔を埋め静かに泣いた。




 「高速使ったから、長距離値引きするね」私はタクシーの運転手に提示された金額を払い、領収書をもらい短いお礼を添えてタクシーを降りた。「今日の仕事はここか」私が呟きながら目を向けた場所は、広大な敷地を有する病院である。私が今いる職員駐車場と言われる場所から、目の前の病院の中央棟4階にある医局秘書課が本日の仕事場である。私が昨年末に選んだ職種はこういった出張が時々ある。しかし殆どは実家近くの自室で行うこともできる。




 「父の言葉通り、私の蓄えた知識をこうやって世のために使うんだからこれ以上の贅沢はできないか」英文で記された化学論文を書き上げた医師に対し指導しながら添削できる人間など、そうはいない。





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