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短編小説「お寿司」



 歩道から見る車の往来は、洋菓子の製造をするベルトコンベアの様に老人には感じられた。妻が好きなシフォンケーキにふりかけるハイグルコースに似た、牡丹ぼたん雪の装飾を施された車たち。きっと夕刻がさらに進むと、車たちは不器用な孫が切り分けた、羊羹みたいに見えるかもしれない。老人はそこまで考えると、隣で歩調を合わせて歩く青年にバレない様に微笑んだ。青年は寒さのせいか少し鼻を赤くしている。いや、青年がある種の熱を帯び、老人に矢継ぎ早に話しかける姿から、顔を高揚させていると表現した方が的確かもしれない。




 「こんな日が来るなんて、感無量です。今思えばですが、先生と初めてお会いした高校一年生の春、僕の人生は今日というこの日に向かって、動き始めていたのかもしれません」老人が指定した店に着き、座敷にあがると老人と青年は向かい合わせに座った。見渡すと店内には老人と青年しかまだ客はいない。その環境も相まってか青年の語調は更に熱を帯びはじめた。




 二人が訪れたお店は、待ち合わせの駅からそう遠くない寿司屋であった。老人が祝い事となると決まって利用しており、店の店主との付き合いは30年を超える。そんな特別な場所に、老人は元教え子を招待したのである。




 「そんなお世辞はよしてくれ。今日は君のお祝いだ。つまり主役は君なんだよ。そんな気を遣わないで是非もっと君の話を聞かせてくれ」老人はそう話し終えたタイミングで、座敷の襖が静かに開いた。店主があがりを二つ持って入ってきたのだ。老人はあがりを受けとると、事前に予約していた握りのコースを早速持ってくる様に指示をした。店主がにこやかに了承し、座敷を去ると、老人は音を立ててあがりを一口飲んだ。





 「僕の話なんてこの前偶然スーパーでお会いした時、お話しした通りです。今年の教員採用試験に無事合格したので、春から晴れて憧れだった先生と同じ教職員として働く。たったそれだけです」「それだけってことはないだろう。残りの大学生活をどうしたいとか、今後先生としたやってみたいこととか、話の種は尽きないだろ?」老人は、元教え子である青年の話が聞きたくてしょうがない様子であった。老人は目尻に皺を寄せ微笑んでいる。当時と何ら変わらない微笑みを向けられ、なんだか青年は嬉しくなった。




 「先生との食事の場で話せる様な、大層なものはありませんよ。ですが、これから始まる私の教職員人生の準備として先生に教えていただきたいことが一つあります」「何だい、改まって?」「これだけは身につけておいた方が良いといった処世術の様なものってございますか?」青年の質問を受け、老人は少し黙った。これから憧れの地で働く元教え子に、辛い現実を包み隠さず伝えるべきか、迷ったのである。




 沈黙はしばらく続いた。「これは、君のためを思ってのことだ。これから話す内容にショックを受けないでくれ」老人の先ほどとは打って変わり、神妙な面持ちから発せられた言葉に、青年は姿勢を正し返答した。「どの様な内容でも、僕のことを考えて下さっての発言と重々承知しております。そしてそれらは全て、私が憧れておりました先生のお言葉です。人生の金言として受け取ります」青年の言葉はより老人の心を苦しめた。しかし、青年の言葉から愚直な性格を強く感じ、老人は語り始めた。




 「これから10年、……いや、20年かけて習得しなければいけない技術がある」老人はそこで言葉を区切り、青年の目を見据えた。「それは何ですか?」青年は覚悟を示す様に合いの手を入れ、老人が答えるよう促した。




 「元教え子と名乗る、見覚えのない生徒と街で偶然会っても、覚えているふりをするんだ。決して覚えてないと話してはいけない。相手は自分のことを恩師だと、感じている場合もあるから……」老人の尻すぼみに小さくなる声が完全に消えると、青年もこの場からすぐにでも消えたい衝動に駆られた。しかし、タイミング悪く店主が襖を開け、立派な寿司の握りを運んできてた。青年はその寿司一瞥いちべつすると、この寿司を食べながら、自己紹介を話すのも悪くないと瞬時に巡考じゅっこうした。





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