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硝子のうさぎ|ショートストーリー

『私で良かったら、教えようか?』

 大学を受験するための準備など皆がとっくに済ませている教室で、俺は打ちひしがれていた。
 それは取り敢えず高校生をやればいい、卒業したら何かしら仕事につけばいい。そんな安易な考えで、二年間を遊び呆けていたからだ。

 三学年になり、共に遊んでいた仲間たちは俺とは違っていたことに気づいた。やつらは遊んでいるように見えて、陰では必死に努力をしていたのだ、と。
 三年になったとたん、クラスの雰囲気が変わった。教員たちの姿勢も当然のことで、俺に対しての風当たりが強くなるのは必然的なことだった。

 そんな時だった。俺の机の上に、そんな言葉を書いたメモ用紙が置かれた。ふと顔をあげれば、そこには予測していた顔がある。
 彼女はクラスでも、いや学年でトップを競うような優秀な生徒。そんな彼女が言葉を発することは滅多となく、こうして筆談を主としていた。

 そこそこ目立っていた俺に声をかけること、それはおそらく勇気が要ったのだろう。彼女の瞳は心なしか赤く、まるで怯えた兎のような固い表情だった。

「え?」

『勉強、私のこと嫌じゃなければ』

「……まじで?」

 彼女は俺の口もとを見つめたあと、すぐに俺の目をみつめてきた。おそらく言葉だけでなく、俺の瞳から感情をも読み取ったのであろう。ふわっと表情を緩ませて、そして小さく何度も頷いた。

 授業が終わるごとに、彼女は俺の前の席に腰をおろす。つい今しがたやった内容への復習、そして俺がひっかかる箇所への説明を繰り返す。
 放課後になれば彼女は帰り支度どころか、俺が首を縦に振るまで教材を片付けない。ノートが真っ黒になるまで、勉強内容と筆談の文字を書き続けてくれていた。

 二学期が終わるころまで、ほぼ毎日それは続いていた。勉強をするということ、それが俺に習慣付いたことに、彼女は目を細めて喜んでくれていた。
 そんな彼女の協力があって、俺は何とか人並みの大学に進学することに成功した。


 彼女とは恋仲などになることもなく、高校の卒業と同時に関わりもなくなった。成績が優秀だった彼女は、俺なんかには手が出ない高レベルな大学に進んで行った。
 大学の四年間、それは本当に楽しいものだった。効率よく勉強を続ける、そんな手腕も身に付いて、そこそこいい商社への就職内定も掴むことができた。

「ねぇねぇ、あきら君って手話とかわかる?」

「は? 何それ、急に。分かるわけねぇし!」

「俺、手話わかるよ。やってやろっか?」

「うっそ、まじで? やってやって」

 卒業式も終えて、数人の仲間ではしゃいでいた。何を思ったのか、仲間のひとりが発した言葉に、俺は調子に乗って笑いをとりに行く。
 当然、手話なんて知りはしない。ただ、今この場を楽しもうと、当てずっぽうに手を振り回す。それはとにかく大袈裟に、そして悪意とも取れるほどに面白く。
 そんな俺の行動に、期待通りの大爆笑がわき起こる。どんな意味か当ててみろ、そんな俺の声に仲間は笑いながら答えていた。

 バン!!

 俺たちの笑い声を上回った、大きな音が背後で響いた。それは振り向かずともわかる、テーブルを平手打ちする音だった。
 何をしているのだろう、と俺はゆっくりと振り返る。そこには知らない女が、怒りを堪えられないような面持ちで立ち上がっていた。

『……え、誰? 俺、こいつに何かした?』

 そう思わずには居られない。何故なら、その女は俺のことを睨み据えていたからだ。何を言われるわけでもないが、その女から憎しみのような念が伝わってくる。
 ふと、その女の横に小さく身体を縮めるように座っている女が居ることに気づく。そして次の瞬間に、俺は一気に凍りつく。

 恩師よりも俺の恩師である、高校のときのあの彼女だった。耳の不自由な彼女は瞳に涙をいっぱいためて、震えるように自らの身体を抱きしめていた。
 改めて、立っている女の顔を見上げる。思い出した……。高校のクラスメイトに、確かにいた女性の顔だ。

 ただ、仲間を楽しませたかっただけ。心の中で弁解をしてみたが、そんな台詞は音には出来ない。目の前にいる彼女との綺麗だった記憶、それを俺は一瞬で悪夢に変えてしまった。
 全てを失ってしまったような、そんな表情の彼女に声すら掛けられない。あんなに親切にしてくれた彼女を、俺は悪ふざけで傷つけてしまったんだ。

 連れの女に手を引かれ、立ち上がった彼女はフラフラと正気を失っているように見える。俺に視線を向けることなく、ましてや恨み言ひとつ言うこともなく。覚束ぬ足取りで、引かれるままに店を後にした。

『ごめん』

 その一言すら俺は彼女に伝えることが出来ずに、ただ黙って彼女たちの後ろ姿を見送るしか術がなかった。
 そして、いま。俺は内定していた会社に勤めることはなく、小さな書店でバイトをしながら手話教室に通っている。

 もしも何時か、いつの日か俺にその機会があるのだとしたならば、きちんと彼女に謝りたくて……

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