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人間の野生化


poem・一行詩

イジメ界

悪口に影口は時にクラクションとして街には轟いて自然には霞んでいく警鐘の色





あとがき…

イジメ・影口・悪口は私達の国・都道府県・市区町村・社会・生活区間などにおいて、人類が発達に発展していくなかで、それぞれの傷跡や足枷として今もなお懸念されるべき事柄だと自身は捉えています。


今回は上記の自身の一行詩から派生しまして、イジメ・影口・悪口のメカニズムについて自身の主観ではありますが探っていきたいと思います。
※以下文章におきまして"イジメ・影口・悪口"はイジメという一つの括りにさせていただきます。

イジメの記憶(断片)



昨今のニュースやAI・人工知能の研究が進んでいく背景で、私達のネットワークではコミュニケーションや相手との関わり方も大きく変容している印象を個人的には受けています。


その時代の波に抗うかようにイジメは根を張り時に心持ちそれぞれのトラウマ的要素を持ち合わせていますよね。


では何故イジメは消えず反芻して、形を変えてまでも根付いているのか。
こちらはあくまでも個人的な感覚なんですが、イジメの情景と文化的で歴史的であるオペラの劇場に似てるんですよね。


オペラを観劇する席、中でもロイヤルボックス席はどちらの時代も取り合いで椅子取りゲームのように相手を引きずり落とし傷つけてしまうと自身は捉えてます。
理由はだいたいが社交席(ロイヤルボックス席)で社会情勢・各々関係性を知り・自身の縄張りを保つことが重要視されていたように覚えています。

縄張り意識


イジメの根本的(根っこ)には人体の仕組みの影響も少なからず在るのではないかと自身は考えています。
それは聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の度合いが等しいならこの順番通りに物事を忘れてしまう(人視点)からです。


割れ先に社交場という戦いの場に向かい、威嚇や言動で縄張りを主張することによる事から生き残る防衛本能としてイジメが蔓延っている可能性があるように自身では受け止めています。


牙を向けた側に傷を受けた側も、どちらも痛みが伴う理由の一つとして学習能力からくる防衛本能からイジメという形に具体化・表面化されるその事柄も自身は懸念すべき点ではないかと考えいます。
何故なら本人同士が同じフィールドで一対一の喧嘩(タイマン)をしたつもりでも、外野(野次)まで飛び火が移り燃え上がってしまうこともありますよね。

上記の事柄をふまえて自身が感じることは、イジメという学習能力・防衛本能が混在している人間社会は今、野生に戻ってきてるかもしれないということです。
動物的な本能である縄張り意識は時に力強く生命力に溢れ生存率を上げていますよね、現代社会においての武装な一面もあるように思います。



以上のことから、何故イジメは蔓延ったままなのか・それぞれのイジメから垣間見る"人間の野生化"について述べさせていただきました。



イジメは人や時代に反芻してしまう。
少子高齢化と同時にイジメの問題は重要視されるべきと自身は感じます。
出る杭は打ちつけるモノじゃない、出る杭は育てるモノだと自身は今は考えています。
※あくまでも私個人の考えです


今回の投稿はこちらで以上となります。
見つけてくださり、お時間を頂きまして、ありがとうございました。
失礼します。

kabocya


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