過ぎ去りし時(オリジナルピアノ曲)

過去をピアノで表現した自作曲「過ぎ去りし時」です。

静止画の風景は1880年代、凡そ140年前の明治時代初期の東京の上野周辺で、上野恩賜公園にある不忍池を来日していた外国人のモースが撮影した写真です。

東京23区が東京市と呼ばれていた時代で、幕末から明治時代初期の東京の人口は、今の十分の一の100万人程度です。現在の都市の規模で言うと札幌、仙台、京都、神戸、広島、福岡といった中核都市程度の人口です。

モースは大森貝塚の発見者として有名ですが、当時、東京帝国大学教授として日本に招聘されていました。

モースは日本滞在時の感想を1882年に「日本その日その日」( JAPAN DAY BAY DAY)という著書に書き残していますので、興味のある方は大きな図書館で探して読んでみて下さい。

その著書には、明治時代初期の日本人に接した感想として、「日本人は正直で子供染みている」「日本は子供の天国」「日本人は丁寧さを教育されている」「日本人は慈悲深い」等と書かれています。明治時代の日本人は、外国人から見ると優しい子供に写った様です。

上野の不忍池は、木々等の自然を除き、今と風景がかなり異なって島に沢山の寺社の建物が見えます。現在も残っているのは戦災で焼けたものの、その後復元された弁天堂くらいでしょうか。

人を待っているのか手前右側に黒い着物姿の女性が立っています。その横にある推定高さ3メートル位の大きな灯篭が、今も撮影地点の目印になると思います。

春の天気が良い日なのに、写真に人が一人しか写っていないのは、当時のカメラの露光時間が長いため止まっている人しか写らなかったからです。

また、写真では池の周辺に白い木製の埒が張り巡らされており、調べると当時はここに競馬場があった様です。

現在では、東京の競馬場は公営の大井競馬場、府中市にあるJRAの東京競馬場の2つしかありません。

そういえば殆どの人は、今の時代、埒なんて漢字を使ったことがないと思います。使うとすれば、馬の好きな人か、一般人なら諺の「埒が明かない」位でしょうか、この埒とは馬の通り道に沿って立てる馬防柵のことです。

念の為ですが、埒は「らち」と読みます。簡単に言うと馬のガードレールということです。

この後、関東大震災、第二次世界大戦、高度経済成長期という順に街は大きく変貌します。

上野と言えばアメ横が有名ですが、このアメはアメリカではなく、飴で飴屋横丁の略です。大通りから入った狭い路地に昔は飴屋が沢山あったことから飴屋横丁と名付けられました。

さらに上野には西郷隆盛の銅像が立っていますが、この銅像の除幕式に呼ばれた西郷夫人が「似とらんのう」と呟いた通り、西郷隆盛とは全く別人です。

かといって別の誰かという訳ではなく、西郷隆盛が写真に撮られることを嫌がった為に一枚も写真がなく、銅像を作るに際し、西郷隆盛と面識がある人の話を聞いて銅像を作った結果だからです。

西郷隆盛が写真でのスキャンダルやゴシップを嫌がったという訳ではなく、明治時代に日本に写真技術が広まる際、写真を撮ると魂を抜かれるという根も葉もない噂が広まり、討幕の中心人物だった西郷隆盛もそれを信じていた様です。

一事が万事という訳ではありませんが、西郷隆盛は革新派と見られがちですけれども、実際は保守派だったようです。

今では信じられない事ですが、当時は露光に時間が掛かり、写真を撮影する際は、写真を撮られる人が数分間動かずにじっとしていることが必要でした。

その為、撮影する光景を見た人が「まるで魂を抜かれ死んだようだ。」と思ったのも不思議ではありません。

モースが発見した大森貝塚ですが、モースが貝塚だと気付いただけで、昔の日本人は、その前を通っても気にも留めていませんでした。

縄文時代以前の人が食べた貝の殻捨て場だっただけの話で、将来夢の島を掘り起こした未来人が、ゴミを過去の遺産として認めるのかという次元になります。

縄文以前の日本人にとり、貝は蛋白源として子供でも簡単に撮れる食糧でした。単純に焼いたり、石で殻を割って身を海水に浸し生で食べたりしていたのだと思います。

貝を食べた後、住居付近に殻が溜まってきたら臭いし、蝿が集るし、さらに邪魔なので、纏めて遠くへ殻を運んでいたのでしょう。結果、空の貝殻の山、貝塚になりました。

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