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二本松探訪記~前編
既に何件か「二本松」のトピックを取り上げていますが、私自身も、短期間ながら学生時代に「バイト」をしていた土地でもあります。
ただし、子供の頃に親に連れられて「二本松の菊人形」を見に行ったり、学生時代に「せっかく通学途中にあるのだから、話のタネに」と1度だけ提燈祭りを見たりした程度で、じっくりと歩く機会は少ない街でもありました。
ですが、取材を通して知り合った方が二本松に縁が深いこともあり、きちんと自分の足で訪ねようと計画していたのです。
そんなわけで、12/19に久しぶりに「二本松」に降り立ってきたのでした。
二本松神社
12/26の記事でお伝えしたように、到着後「杉乃屋」さんで浪江焼きそばを頂きました。
その後、霞ヶ城を目指します。
ですが、まずは二本松の「総鎮守府」にお参りをしました。それが、「二本松神社」です。
二本松神社の説明にもあるように、秋の例大祭「二本松の提灯祭り」は、こちらのお宮の例祭です。
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中世室町時代(15世紀中頃)に、この辺りを支配していた「畠山氏(奥州の豪族の一つです)」により「品陀和気命(八幡様)」と「伊邪那美命(熊野様)」が合祀されて以来、近世・江戸時代初期に会津藩領に組み込まれていた時代も含めて、蒲生・松下・加藤氏によって、大切にされてきたそうです。
寛永二十年(1643年)に二本松藩が正式に認められ、初代二本松藩主である丹羽光重公がこの地を拝領してからは、二本松の総鎮守社とする旨を公達。
それ以後、二本松城下の鎮守社として今でも大切に守られています。
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長い石段を登っても、本殿まではまだまだあります。
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こちらが本殿。神社のあちこちに、「☓」印がありました。
これは、丹羽氏の家紋で「直違紋」と呼ばれるものです。
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二本松神社に限らず、丹羽家によって保護されてきた寺社仏閣等、二本松ではあちこちで見られるそうで、他に
大隣寺(丹羽家の菩提寺。二本松少年隊の供養塔もあります)
隠津島神社本殿(旧東和町。木幡の幡祭りで有名)
霞ヶ城箕輪門
などで直違紋が見られるそうです。
尚、神社の入り口には「城郭全図」の看板もありました。
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二本松神社は現在の二本松駅からすぐのところにありますが、この後、二本松が「敵襲に備えて整備された街」だというのを、身を持って実感する羽目になります(苦笑)。
「坂」には慣れているつもりなのですが、本当に「攻め込まれることを想定して、畠山氏は街づくりを設計したのだろう」というのが、よく分かります。
江戸時代より少しさかのぼって、「伊達政宗」と「畠山義継」がこの地を巡って激戦を繰り広げた、というのも頷けます。
歴史資料館
二本松神社を後にして、今度はGoogle Mapsを頼りに、「歴史資料館」を目指します。
城下町らしく、「大手門御堀跡」なんていう看板もありました。
ちなみに、右手に見える倉造りの建物が、二本松の銘菓も扱う「日夏」さんです。
(玉嶋屋さんと、すぐご近所)
次回はぜひ、お伺いしたいものです。
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歴史資料館の直ぐ側にあった看板より。
大手門が完成したのは、江戸時代も終わる頃だったのですね。意外かもしれません。ですが、「幕末の不穏な空気」も、二本松まではなかなか届かなかったのでしょうか。
それでも、30数年後には戊辰戦争で消失してしまいます。
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歴史資料館の敷地内に残る、当時の「丹羽家上屋敷の石垣」。二本松に元々あったものではなく、江戸屋敷で隣家の丹後峯山藩、京極家との境界に使われてた石垣だそうです。
さて、お目当ての一つである「歴史資料館」です。
感想は……。
「うーん、好きな人は好きかな?」という印象でしょうか。
中世以前(2F第1展示室)
「二本松」というと、やはり二本松少年隊のイメージが強いのではないでしょうか。ですが、いきなり「縄文時代」から時系列での展示なので、考古学に興味もある人でないと、辛いかも^^;
火焔土器を含む縄文土器、須恵器などの展示物で1/2くらいを占めていた気がします。
ただ、ここで先日紹介した「虎丸長者」の伝承を見つけたので、展示の仕方を工夫すると、戦国時代以前の二本松の歴史にも、光を当てられるかもしれませんね。
もしくは、今後の各種発掘調査の結果待ちでしょうか。
中世~戦国時代・幕末(2F第2展示室)
歴史オタクが喜びそうなのが、こちら。
二本松城主であった畠山氏や丹羽氏に伝わる品々が展示されており、見応えがあります。
写真撮影がNGなので、展示物について詳しくお伝えできないのが残念。
個人的にツボにハマったのが、「三代目(丹羽光重公)の煙草箱」でしょうか。
これは、あの「赤穂事件」にまつわる逸話が残っています。
二本松藩三代目光重公の実姉の姫君が、浅野内匠頭の父(浅野長友)の正室だったのだとか。
二本松の剣術は「突き」を得意とする流派だそうです。
吉良上野介を一撃で仕留められなかったことを耳にした丹羽様が、
「なぜ切りつけたのか。なぜ突かなかったのか。突けば思いを遂げることができたものを。」
と、無念と口惜しさから、煙草箱の灰入れに煙管を叩きつけたそうです。
写真には収められませんでしたが、実物にはちゃんと凹みが残っており、光重公の気性の激しさを物語っているかのようでした。
また、やはり見応えがあるのは「丹羽家」伝承の具足や陣笠、金蒔絵の日用品(丹羽様が使っていらっしゃったのでしょうか)等など。
どれも直違紋が散りばめられていて、代々大切に保管されてきたのでしょうね。
手元にあるメモを見ると、
早乙女家親の
「青絲威二枚胴具足」
胴丸部分に直違紋が散りばめられている
とありますから、有名な甲冑師に甲冑作成を依頼し、武士としての誇りを受け継いでいたのでしょう。
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そして、私が個人的に見てみたかったのが、武谷剛介の脇差です。
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武谷剛介の回顧談
藩のため戦争に出て戦うことは、武士の子として当然のことであって、特に語るべきことではない。恐ろしいとは思わなかった。
出陣の前夜などは、今の子どもの修学旅行の前夜のようなはしゃぎようだった。
この言葉は、剛介氏のご子孫の方から直接伺っていることもあり、「武士の在り方」とは、どういうものだろう?と考えさせられる言葉でもあります。
実は、夏に書いたショート・ショートは、このご子孫のお話をヒントに誕生しました。
福島県の戊辰戦争というと、どうしても「会津」のイメージが強いのですが、実際には「各藩なりの戦いがあった」というのも、後世に伝えていかなければならないのではないでしょうか。
4月の白河口の戦いに始まり、棚倉藩、守山藩、磐城平藩、三春藩の恭順。
相馬藩、そして7/29の霞ヶ城落城から8月の母成峠の戦い、9/22の会津藩降伏へ。
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木村銃太郎氏の討死を始め、道中、耳にしたくない話を聞く機会も多かったのでしょう。
この中で、剛介氏が14歳という若さで、どう生き延びる決心をしていったのか。
単純に「戊辰戦争」の一言だけで片付けられない、その後の人生も含めて、彼なりの戦いがあったのだと、歴史資料館の一振りの脇差から学んだ気がします。
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これまで数々のサポートをいただきまして、誠にありがとうございます。 いただきましたサポートは、書籍購入及び地元での取材費に充てさせていただいております。 皆様のご厚情に感謝するとともに、さらに精進していく所存でございます。