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散らかった部屋で何思ふ・第33回 “冷笑より微笑みを”

「一難去ってまた一難」という諺があるが、まさしく今の私の状況そのものである。

2月の初旬、心因性失声症が再発し、ものすごく不便な思いをした。声が戻り、安心した矢先に、今度は花粉症によるアレルギー性喘息発作に苦しみ、長時間話すことができなくなった。

今年の花粉は、かなり多いと聞く。確かに、ここ数年は症状が出なかったので(まあ飲み薬は服用し続けているのだが…)、今年もそこまでにはならんだろうと、高を括っていた節もある。

普段は、音声配信アプリなどで、声で発信することを趣味として行っている。しかし、長時間の収録が困難となった。アレルギー体質だから仕方がないと言えば仕方がないのだが…。常に何らかの形で現在の私の中に内在している感情であったり、思いであったり、そういったものを発信し続けてアウトプットしなければ前に進むことができない質の人間なので、今、こうしてパソコンを起動し、この記事を書いている次第。

前置きが長くなってしまった。今の世の中に対しての絶望感や不信感、そして無力感などが、日に日に増しているような気がしている。

他人の痛みに対して、鈍感すぎる世の中だな、と常々思うのだ。自分さえ良ければ、他者を蹴落としても構わない、そういった考え方の人々が、世の中全体で持て囃されている。いわゆる「冷笑系」と呼ばれる人々である。

誰かのために一生懸命、必死になって頑張っている人たちを、「偽善者だ」と一蹴してしまうような人々が、平気でニュース番組のコメンテーターとして多用されている。世の中自体が病んでいるのだな、私はそう思っているので、テレビのニュースは敢えて観ないようにしている。こっちも病んでしまうから。

「やらない善より、やる偽善」という言葉にもあるように、たとえ「偽善だ」と言われようとも、何もしていないアナタに言われたくはないね。椅子にふんぞり返って、あることないことをヘラヘラと垂れ流し、鼻で笑っているようなアナタには言われたくないね。

誰が何と言おうと、みんな必死になって生きているんだよ。それを小馬鹿にして、まるで見世物のように晒し者にして、嘲笑う。そういった人間の血が通っていないような人々が、のうのうとテレビで幅を利かせている現状。非常に嘆かわしい。

人間としての温かさを、忘れてはならない。どれだけ世の中が荒んで、退廃的な状況になったとしても、人間としての温かさだけは、心の中の一つの軸として、一つの核として、持ち続けて生きていきたい。

世の中自体が、病んでいるのだ。そりゃあ、みんな病むさ。

だからこそ、病んでしまったと自責の念に苛まれる必要は無いのだ。だって、世の中自体が病んでいるんだもん。

ただ、病んでしまったとしても、周りに当たり散らすのは違うと思う。必死になって生きている人々を見下すようなことはしてはならないのだ。

確かに、自分よりも下と認識した人たちを、嘲笑することは簡単だし、向こうは逆らえない立場故に、何も言えないのだから、バカにしたりすることは安易な行為である。しかし、そういった行為をしたら、相手はどう思うだろうか。「復讐してやる」と思うかもしれない。因果応報という言葉にもあるように、自分が蒔いた種は、最終的に自分に返ってくるものである。

また、自分よりも下の人間を嘲笑している自分自身にも、嫌悪感を覚える時が、間違いなくやって来る。あとに残るのは、虚しさだけだ。

性善説とか性悪説とか、そういったカテゴライズは一旦置いておいて、一度立ち止まり、自分自身の心を見つめ直す。そして、人間としての優しさを思い出し、世の中の平穏を祈るだけでもいいから、ぬくもりのある社会になって欲しい。それが、私にとっての希望であり、願いである。

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