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「アカデミー」とは|200年以上も西洋絵画のメインストリームだった美術学校

西洋美術史を語るうえで、やたらと登場するのが「アカデミー」という存在。歴史上の画家たちは、この組織に良くも悪くも振り回されてきた。

このマガジンでも画家の人生を振り返るうえで何度か触れたが、よく考えると「そもそもアカデミーってなんだ」については詳しく書いていませんでした。しかしアカデミーという存在は西洋美術史において、200年以上もメインストリームとして君臨し続けてきた存在。「美術のルール」を定めて画家を選定し続けてきた機関である。

今回はそんな「アカデミー」について一緒にみていこう。「なぜ生まれたのか」「美術界にどんな影響を与えたのか」がよく分かってくるはずです。

アカデミーとはフランスの王立絵画彫刻アカデミーを指す

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アカデミーとは5文字で要約すると「王立の美大」です。特に西洋美術を取り扱ううえでは「フランスの王立絵画彫刻アカデミー」を指す。では、なぜ王立絵画彫刻アカデミーが誕生することになるのか。その理由をみてみましょう。

今となっては当たり前に国が音楽大学や美術大学を作っていますよね。この「クリエイターを育てるためのための学校」ができたのは1670〜80年代と、意外と遅かった。

では、その以前はどうだったか、というと完全に徒弟制だったんですね。もはや芸術家というか「職人」の世界だったわけだ。一部の熟練者が教会・王家などから仕事をもらって名が知れ渡る。するとその下に「し、師匠!」と弟子がやってきて、師匠の仕事のおこぼれをもらう、みたいな世界。

ただ一応、14世紀ごろから「職人組合」ができて、そこに画家や彫刻家、建築家などが所属をしていたわけだ。これを「ギルド」といいます。

ただギルドは超閉鎖的だった。新参者が来ると「にわかはROMってろ」といわれる初期2ちゃんねるレベルで古参が幅を利かせていたわけだ。すると新しい画家や建築家などが仕事を取れなくなるわけですね。

そこでフランスの新進気鋭のアーティストはみんなイタリアに行った。イタリアにはすでに緩めの美術学校がいくつかあり、仕事を取りやすかったんです。そんななか、フランスのギルドは依然めっちゃ厳しく新参者を排除したので、ついに反発が起こるまでになるんですね。

王立絵画彫刻アカデミー発足! 見栄っ張りのルイ14世がさまざまな学校を作る

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そんななか王家のお抱え画家のシャルル・ド・ルブラン「イタリアに全部持ってかれてフランスの芸術は死ぬぞこれ」と危機感を持つ。そこで王家に「うちも美大をつくりましょ」と持ちかけ、王立絵画彫刻アカデミーが発足した。

そしてこの時期にフランスの王になったのが太陽王・ルイ14世です。彼は我の強いルイの系譜のなかでも特に見栄っ張りだ。なんせ彼の在任期間54年のうち、32年は戦争していたんですよ。とにかく力を誇示することに躍起なバーサーカーでっせ。なので「フランスを文化の中心にすること」にも命を燃やしたんです。

そこで、王立絵画彫刻アカデミーだけでなく、10年の間に「舞踏アカデミー」「碑文・文芸アカデミー」「科学アカデミー」「王立音楽アカデミー」「王立建築アカデミー」を設立。フランスはルイ14世の時代にあらゆるカルチャーの中心地になるんですね。

王立絵画彫刻アカデミーの作品が王政のプロパガンダに利用

こうして誕生した「王立絵画彫刻アカデミー」のおかげでフランスの画家は美大に入って王家の仕事をもらうようになった。するとルイ14世の右腕・コルベールがアカデミーに王家の仕事を全て渡すようにした。しかも年金も上げた。「え……? なに急に? 逆に怖いんだけど」ともはや狂気的なくらいのヤンデレを見せつけるわけだ。旦那の浮気を知ってる奥さんみたいな怖さ。

その裏にはもちろん考えがあって、その代わりに芸術家に「とにかく王を褒め称えるものを作れ」と命じるわけです。今でいうと「選挙ポスターしか描くな」みたいなもんだ。

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つまりコルベールによって、アカデミーの芸術家たちはプロパガンダに巻き込まれていくわけですね。

「サロン」によって絵画モチーフのヒエラルキーが確立

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ただ先述した通り、コルベールは芸術家たちを手厚くもてなした。これが美術カルチャーを盛り上げることにもつながる。

1667年には世界で初めての展覧会を開く。これはのちのち「サロン」と呼ばれるようになります。

サロンというのは、とにかく「王家主宰」ってのが肝だ。とにかく影響力がものすごく大きいんですね。しかも当時の王家は絵画に対してはっきりと以下のような階層をつけた。

1.歴史画
2.肖像画
3.動物画
4.静物画
5.風景画

5段階に分かれているものの、実際は歴史画と肖像画がめっちゃ大事で、動物が以下はまったく評価されなかった。風景画なんて描くと「それまだ途中でしょ?(笑)今からその上に人描くんでしょ?(笑)」とインテリぶったやつにバカにされまくった時代です。

フランス革命後、アカデミーに対する反発まで

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アカデミーはこのようにして画家を選別していった。もはやアカデミーの会員になることは将来の安定を約束されること。会員はフランス中の画家の憧れになったんですね。だから世の中は歴史画と肖像画ばっかりになる。

そんななか1789年からフランス革命が勃発。簡単に言うと、あまりに横暴だった王家を、力をつけた一般市民が、クーデターで倒したわけだ。太陽王・ルイ14世をはじめ、みんな散財しまくってた。そのツケが回ってきたんですね。

そこで王立絵画彫刻アカデミーはいったん解散となる。しかし1795年に再興し、1816年には王政復古の勢いのまま「芸術アカデミー」と名を変えて再スタートした。

それでサロンもまた始まったわけだが、ここで審査員となったのは、革命後も伝統的な趣味をしていたアカデミー会員だった。「昔はよかった」と飲み屋で新卒を追い詰めるおっさんが作品を評価したわけだ。

しかもこのころ流行していたのが「ロココ主義」。豪華絢爛でとにかくド派手。そしてちょっとエロティック。そんな作品がもてはやされていた。

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ジャン・オノレ・フラゴナール「ぶらんこ」

それに対してもサロンの審査員は、はらわた煮えくりかえっていたんですね。「ルネサンス時代はよかった……」みたいなことを、当時を生きてもないくせに言ってた。その時期にはちょうど「ボンペイ古代遺跡の発見」という出来事もあって、民衆も過去の作品に興味が湧いており、「新古典主義」という「ルネサンスの時代にならった絵を描け」といった思想で作品を評価したわけですね。

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ドミニク・アングル「グランド・オダリスク」

「ロココとかもういいから。ちょっといったん落ち着け」といったわけで、超保守的だったわけだ。この保守派の考えを「アカデミズム」といいます。

このころも依然、王立絵画彫刻アカデミーのヒエラルキーはもちろん、残っていて、静物画や風景画はサロンで落とされていた。しかしフランス革命後の画家たちは前よりも強く「何や王家は。新しい表現も評価しろや」とキレかかっていたんです。

そこで「ロマン主義」という「自分のやりたいことをそのまま表現する」手段が現れる。彼らは新古典主義のサロン審査会と真っ向から対立した。

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ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を率いる自由の女神」

さらに落とされた絵にも関心が集まる。「何でもかんでも落とすなよ。落とした絵のなかにも民衆に好かれる作品があるかもしれんやん」とダメだった絵を集めて「落選展」を開催した。

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マネ「草上の昼食」

また1874年には印象派が「風景画が評価されなすぎるから、もう勝手にイベント開いちゃうもんね」と印象派展を開催。彼らのうち数人はもともとアカデミーのメンバーだった。ある意味、内部告発である。

この流れを受けて1884年には「審査なし!作品送ってくれたら誰のどんな作品でも展示するよ」とアンデパンダン展が開かれ、ついにサロン自体の運営も1881年からは民間のフランス芸術家教会が進めるようになる。1860~1880年の間に、一気にアートの自由度が高まっていくわけだ。

するとポスト・印象派の時代になって、アカデミーに通わず独学で絵を学び、勝手に集団になって作品を発表する動きも増える。ゴッホもゴーギャンも独学ですからね。

フランス革命を見れば分かるように、もうこのころはブルジョワ層もお金をもっていて、芸術家のパトロンになることも増えていた。もはや、アカデミーやサロンを主宰する王家にすがらなくてもよくなったから、自由に作品を発表できたんです。

このあとアカデミズムは「まだ伝統芸能やってんの?」と逆に揶揄されるようになる。しかし前衛芸術が増えまくった1950年代になると、「ちゃんと描けよお前ら!」とまたアカデミズムが重要視されていくからおもしろい。

「基本から前衛に」「前衛から基本に」と時代は回っていくわけで、アカデミズムという「美術の教科書」は常にその時代の真ん中にいるわけなのである。

アカデミズムは決して負の側面だけではない

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さて、今回は西洋絵画において実に200年以上も文化の中心だった「アカデミー」について紹介しました。どうしてもアカデミーのことを書くとき、個人的にはちょっと意地悪な書き方をしてしまうんです。根がパンクなもので。へへへ。

しかし、アカデミズムがなければ印象派やロマン主義などのカウンターカルチャーも起こらなかったわけだ。前の記事でも書いたが、吉本興業がNSCを作らなかったら1期生のダウンタウンは生まれていない。ずーっと師匠と弟子でしか表現ができない世の中であれば「美術」というカルチャーは育たなかったでしょう。

皮肉なことに、いま世界的に有名な画家はほとんどアカデミーに反抗した人ばっかりなんですよね。この現状が「アート」という言葉を表しているように思う。。アカデミーの方針通りに作るのであれば、デザイナーですよね。アートはやはり自己表現。王家のためじゃなくて自分のため。

そう考えると、アカデミーという基本をみることで「アーティスト」と「クリエイター」の違いが分かってくるのかもしれません。


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