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今敏のOPUSを解説!”すべてのマンガ好きが喰らう”メタの衝撃

今敏のことが好きすぎてついつい記事にしちゃうんです。ちょっと「もうしつこい」ですよね(鬼の自覚)。すみません好きすぎるので、全作品いくまで語らせてください。

今敏はアニメ監督として「パーフェクト・ブルー」「東京ゴッドファーザーズ」「千年女優」「パプリカ」「妄想代理人」などで知られている。アニメ監督としての遺作は公開出来なかった「夢見る機械」です。「未完の遺作」という中二心をくすぐる言葉。

しかし彼はもともとマンガ家・作画屋さんで、マンガ作品はアニメと同様に寡作。全部で4つの作品を出しており、その1つが今回ご紹介したい「OPUS」である。いやもうこのマンガがすんごい衝撃作なのです。

OPUSは今敏作品の原型ともいえる大傑作

この作品は1995〜6年に描かれ「パプリカ」をはじめ、今敏作品の最大の特徴になる「フィクション(夢)とリアルの境界線」を形づけるきっかけにもなった。

この作品をはじめて読んだ衝撃は、くっきりはっきり覚えていて、読み終わった後に独り言で「やっばい!やっばいよこの話!」と唸ったほどだ。独り言をこんなにはっきり言っちゃうほどビックリした。ここまで「キャラクターとは?」という概念に問いかけた作品は他にないのではないか。

今作品に共通して観られる特徴ではあるが、どこまでが虚構でどこからが現実なのか。そもそもマンガの限界って何なのかという不思議な感覚がまず湧く。

その後、あれ? 私は何を読んでるんだっけ? というか私いまどこにいるんだ? 自分の部屋か? いや違う気がする? あれ?ところで今は何世紀なのか? おや?私は何なのか、いま何を持っているのか? ともう自分の出自に疑問が湧きはじめ、最終的には「なぜ世界はあるのか」という疑問に達して、ふわふわした心地でベッドに入るしか選択肢がなくなる。

今回はそんな傑作「OPUS」についてあらすじから考察、感想などなどを書いていこう。

OPUSのメッタメタなあらすじ

まずあまりにセンセーショナルな作品のあらすじを書きましょう。この作品は当初、未完となっているが実は2019年に完全版が刊行された。その完全版のあらすじを、要点だけ抜き出して記載します。

OPUSはいきなりクライマックスからはじまる。少女・サトコと少年・リンがラスボス的な存在である・仮面と対峙しているシーンだ。仮面のパワーは凄まじく、サトコとリンは苦戦を強いられる。と、ここで画面が引いていき、マンガ家と編集者のやり取りの場面に切り替わる。

さっきまでの戦いは「Resonance」というマンガのなかの話で、今作の主人公でありResonanceの作者である永井力が編集担当と話している。どうやらこのあとはリンと仮面が相打ちになってしまうというシナリオらしい。

その後、永井力は自宅の仕事部屋でその相打ちのシーンを描く。しかし、ふと目を離すと、肝心の相打ちシーンのページだけなくなってしまう。代わりにそこにはマンガのキャラであるリンが現れて「このページ持ってくからな!」といってページを持ったまま、またマンガの世界に戻っていく。

慌てて永井もマンガのなかへ。ちょうど仮面とサトコが戦っている中に落ちるも、何せこのマンガは永井が作ったものだ。武器がある場所や、仮面の弱点などは熟知している。永井とサトコはその場から逃げてリンの行く末を追う。

リンは自分が殺されるのが嫌で、物語の第1章に戻って仮面を殺そうとしているのである。しかしそもそもリンは第2章で仮面に殺された男の生まれ変わりである。なので、仮面を殺すと自分も消滅してしまうわけだ。そこで永井とサトコはリンを追う。

その後はマンガ世界のなかで永井は神となる。そりゃそうだ。創作者なのだから。しかし神だけど、思ったように話は進まず、バタバタしながら、そのなかで1章まで戻り、そもそものマンガのシナリオを変えるべく、奔走する。

しかし仮面は仮面で「何だあの冴えないメガネは!何で私の考えてることがわかるんだ!」と疑問を持ち、自分がマンガのキャラクターであることを悟り、自我が芽生えはじめる。そのあたりからマンガの世界が崩壊を始めるわけだ。(「過去のページが登場人物の頭から飛び出る」「街がだんだんと漫画化する」など)。

結局のところ最後はページを取り返した永井が、現実世界に戻ってきて、あらためて新しいオチを書くという場面で終わる……かと思いきや、最後は永井自身もマンガの一コマとなり、今敏本人が現れて「う〜ん、どうすっかなぁ。休刊とか聞いてねえよ〜」みたいな風景に切り替わる。その後、今敏のコマから永井が飛び出してきて、永井と今敏が喧嘩をしているのを、買い物から戻ってきた奥さんが見てしまい「きゃー!!」で終わり。

作者はキャラクターにとっての神ではない

このマンガのテーマは「キャラクターは作者の思い通りなのか」。かなり挑戦的なものだ。ここに切り込んだ発想が素晴らしすぎますよね。決してマンガだけではなく、小説にしても映画にしても「作者の存在」っていったい何なのでしょう。キャラの創造主なのか。いやしかし、決してそうではない。

たとえば、作品を見て感動して泣くことがある。野坂昭如原作の「火垂るの墓」は何度見ても泣けてしまって、もう観たくないとまで思わせる力のある作品だ。登場人物の節子と清太の健気さ、そしてやるせなさ、悔しさなどなどが伝わってきて、こちらまで胸にくるわけである。

ここに「野坂昭如が作ったもの」という前提があったらどうだろう。泣けないのではないか。いわゆる「作られたものって感じ」が全面に出てしまって、冷めちゃうんじゃないかと思う。つまり何が言いたいのかって、キャラクターはいつしか作者という創造主の手を離れて、ドラマを作っていく存在であるべきではないのだろうか。だってハルヒの作者・谷川流とか50のおっさんだぞ。キャラの抱き枕を抱いているときに顔がちらつくのとか嫌だろう。

マンガ家や小説家はよく「キャラがひとりでに動いてくれる」という表現をするが、こう勝手に自立してくれるキャラクターだからこそ、相手の気持ちを打つのではないか、と思うのだ。作品はいつしか作者の手元を離れて動くからこそ、相手に伝わる。

そしてその通り、OPUS本編のなかで、自由奔放に動き回るキャラを見て、永井はだんだんと作者としてのエゴを反省していく。また同時にキャラクターは永井すら知らなかった一面を見せるようになるのだ。

リンを描く永井、永井を描く今敏、今敏を描く今敏という永遠のメタ構造

そのテーマを描くうえで、メタフィクション構造は絶対に必要だった。メタマニアの私としてはもうこの作品はたまらん。まず物語の主役であるリンやサトコがいて、リンやサトコを描く永井というキャラがいて、最後に永井を描く今敏が出てくる。

しかし、よく考えるとそのマンガ誌面にいる今敏も現実の今敏によって描かれたものであり、ノンフィクション性はあれども虚像であり、二次元の枠からは出られていない。つまりこの後の展開次第では「今敏と永井の喧嘩のシーンを描く今敏」も描けるわけで、そうなると二次元上で永遠にメタフィクションができることになるわけだ。これは発明なのではないか。漫画に描く以上は永遠にマンガの世界から出られない。でも限りなく三次元には近づいていく。とっても不思議な感覚だ。

この場合の「マンガに描かれた今敏の虚像」はどんな役割を持っているんだろう……と考えると、より不可思議な感覚になる。”今敏”ではあるが「今敏」ではない。いや誰だこれ……。

三人称小説でよく言われることだが「神の視点」という言葉がある。これは作者の視点の隠語のようなものだ。そういった意味でもOPUSを語るうえでメタフィクションの表現は必要不可欠だったのだろう。

今敏作品ではこのほかにもメタフィクションの表現がいたるところにあって、わくわくするので、また別の記事で解説しましょう。「OPUS完全版」はAmazonでサクッと買えちゃうので、気になる方はぜひ。


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