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さいとう・たかをとは|マンガ界にもたらした「劇画」と「ハリウッド式の制作体制」について紹介

2021年9月24日、さいとう・たかを先生が亡くなった。誰か有名人が亡くなって「あぁ、ちょっと悲しいな」ってのは久しぶりでした。

それは彼がマンガ界にもたらした偉業を存じているからで、水木しげる先生や赤塚不二夫先生が亡くなったときにも感じたが「日本の文化を作り上げた人がまた1人……」という、なんともふんわりした寂しさだった。

大学生のころ「アフリカ!」でおなじみ「アストロ球団」から劇画にハマった時期があった。ぜひ読んでほしいよ「アフリカ」。マジで「黒子のバスケ」が霞むくらい特殊能力のオンパレードで、ガチでアフリカだから、

アフリカ!!

それから『あしたのジョー』や『巨人の星』といった劇画に触れることになる。「いつまでコジコジとか読んでんだボーイ? これがハードボイルドだぜ。さっさとそのバーボン。飲み干しな」みたいな、あの陰影とシワのタッチに憧れていたんですな。もうなんか全員が激太まゆ毛で常に目つき鋭いもんね。

そんな質実剛健感MAXのタッチはどうやら『ゴルゴ13』のさいとう・たかを氏が作ったらしい」という噂を聞いて、劇画の歴史を調べていたことがあります。

今回はそこで知り得た劇画についての情報を共有。知れば知るほどにさいとう・たかを先生の偉大さがじわーっと沁みてきます。「何がすごいのか」「漫画の何を変えたのか」を楽しくみて観ようではないか。

さいとう・たかを先生の来歴

さいとう・たかを先生

さいとう・たかを先生は、1936年に和歌山県で生まれ、すぐに大阪・堺に引っ越した。

太平洋戦争勃発が1941年。つまり大日本帝国が徐々に戦争に向き始めた時代に少年期を過ごしたわけだ。ちなみにゴルゴ13では、第1話から第二次世界大戦のナチスドイツの話が描かれており、かなり戦争に対して思い入れを持っていらっしゃるのだろう。

さいとう・たかを先生は「私の八月十五日」というエッセー集で戦争のことを振り返っていらっしゃる。私は恥ずかしながらこの本を読んでいないので、具体的にどう彼に影響を及ぼしたのかが分からない。読んだ人いたらコメント欄で教えてください。

生まれは和歌山県だが、すぐに大阪・堺市に引っ越す。幼いころは図工が得意ないっぽう、喧嘩っぱやい少年だったそうで「将来はボクサーか画家」という、もうなんか「篠原有司男路線まっしぐら」みたいな夢を持っていた。

篠原有司男

ちなみにさいとう先生は「カウント8で起て!」という劇画ボクシングマンガも描いてますね。9じゃなくて8ってのがなんか通っぽい。かなりボクシングにも愛情深い方です。

さいとう・たかを『カウント8で起て!』

戦後に中学を卒業したさいとう先生は、一度実家の床屋を継ぐ。本当は挿絵画家になりたかったそうですが「今後、縮小していく業界だろう」と、なんとなく考えていて及び腰になっていたらしい。

ちなみにこの後、小説からマンガに人気が移行していくわけで、見事に未来を言い当てているのがハンパない。根っこのところに、優れたビジネス思考をお持ちの方だったんですね。

それで床屋をしながら、映画や「10セントコミックブック」にハマっていたという。その名の通り10セントのマンガで、1940年代からアメリカで流行っていた。主にディズニーやマーベル(当時はタイムリー・コミックス)が出版していた。今だと動物愛護団体から怪文書送られてきそうなヤベェ装画である。

10セントコミックブック
10セントコミックブック

ちなみに当時のアメリカ兵はこぞってリュックに10セントコミックブックを入れていたらしい。流石に、最前線で弾避けながら「ちょw 今月号のミッキー半端ねぇぜブラザーw」と笑い転げつつ乱射していたわけじゃないだろうが、まぁ休憩時に読んでいたのだろう。

そんなコミックスの影響で描かれた日本初のストーリーマンガが手塚治虫の「新寶島(宝島)」だ。さいとう先生は新宝島を読んで「紙の上で映画が描けるのか」と興奮したという。こう書くと、手塚治虫がものすごく年上のように聞こえるが、実は2人は8歳しか違わないんです。ほぼ同世代といっていいでしょう。

この作品は私も持っていて、たまに読み返します。確かに映画(というか今だとアニメ)的。まるでパラパラ漫画のように、時間の流れ方が精密。それでドキドキする。また正面からだけでなく、俯瞰のショットも多い。以下のページを見ると、特に「映画的」の意味がわかると思う。

手塚治虫『新寶島』の1シーン

さてさて、そんなさいとう先生は1956年に家業である理髪店を閉めて、漫画家としてデビューをするわけだ。今だと「やりたいこと」に寛容な親も増えただろうが、家業を潰してマンガを書くのは、かなりのスキャンダルです。

さて、ざっくりマンガ家になるまでの人となりを書いたところで、ここからはさいとう・たかをという人物がいかにすごいことをしたか、について紹介していきたい。昭和文化史を語るうえで、また漫画家という職業の働き方を考えるうえで、めちゃめちゃ偉大な功績を残した人です。

「劇画」の発明者のひとり

松本正彦『劇画バカたち!!』より

個人的にはコレが漫画史上に残るさいとう・たかを先生のいちばんの偉業だと思う。それまで漫画といえば子どもか、大人しか読んでいなかったが、その間である「青年」を巻き込んだんです。

あの……サークルのきったねぇ部室に溜まって授業も行かんとマンガを読む大学5、6年生を生み出したのは、さいとう先生らの仕業ですよホント(自省)。

それを解説するために「漫画の歴史」というのをざっくり振り返ってみよう。ちなみに下の記事でも紹介しています。

まずコマ割りとか吹き出しのような表現が起こったのが明治・大正期のこと。そこから流行語にもなった「ノンキナトウサン」をはじめ新聞の左上に4コマ漫画が載るようになった。

麻生豊『ノンキナトウサン』

ここまでのマンガはまだまだ超短編で、多くても9コマくらい。名が表す通り「絵(画)」という概念のメディアだったんですな。

で、ようやく戦前、戦中くらいに「のらくろ」をはじめとした複数ページの漫画が出るようになったんです。

そこから手塚治虫がディズニーなどから影響を受けた「記号絵」といわれる、◯△□を組み合わせた子どもにも分かりやすい表現で「長編のストーリー」を作るようになるわけだ。

さっきの「新宝島」は手塚さんの初期の作品である。これがいわゆる「ストーリーマンガ」で、数コマ、数ページ単位でなく、長編のストーリーを書きはじめたわけです。

で、手塚さんの作品を始め、子ども向けの雑誌で連載が始まる。この雑誌は「赤本」といわれて駄菓子屋なんかで売られていた。今もあのぶよぶよの青いボールとか、水風船なんかが売られてると思うが、あの括りでマンガがあったわけだ。

一方で、貸本漫画という文化もあった。こっちでのメインターゲットは労働者階級の大人だ。「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげるや、「カムイ伝」の白土三平らが初期から活躍していたんですね。

で、さいとう・たかをは、大阪でこの貸本漫画を描いていたんです。当時は景気も悪くなりかけてて、赤本を買えなくなった子どもたちも貸本屋に来ていた。

図書室みたいに、本の扉に借りた人の名前を書くシステムだった。それで、どのマンガが人気なのかを調べていた。編集者が貸本屋に来て、本の背表紙だけ見て帰るみたいな。

ただ当時の貸本漫画家も出版社も超貧乏。大阪にあった「日の丸文庫」では、とうとう原稿料をもらえていなかった。大阪の漫画家は「食えねぇ」と、続々上京していくような状態だったのだ。

それで石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、岩井しげお、鈴木洸史の7人が「関西漫画家同人」を発足。出版社に依存せず、自分らで団体をつくって漫画の描き方、また働き方を見直そうとするわけだ。

7人は「従来の漫画以外の、自分が表現したい絵を描きたいんだけどな〜」なんて思っていた。当時は子どもが漫画のメインターゲットだった時代だったが、彼らはハードボイルド小説や映画を好んでおり、手塚のような丸っこい絵ではなく、渋い表現がしたいと思ってたんです。

そしてこの7人より先に、同じことを思っていたのがさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、松本正彦らである。この3人は貸本漫画を描きながら、同居していたんですね。

特に辰巳は「関西漫画家同人」が発足したのと、ほぼ同時期に「幽霊タクシー」という作品の見開きで、はじめて「劇画」という言葉を使った。

辰巳ヨシヒロ『幽霊タクシー』

ちなみに辰巳が「劇画」といっていたが、さいとうは同じ表現を「説画」といい、もう1人の同居人・松本正彦は「駒画」と呼んでいた。呼称はまだバラッバラだったわけだ。ただ、考えは同じ。「映画みたいなかっこいいマンガを届けたい。」

1959年には「関西漫画家同人」のメンバーの一部に辰巳、さいとう、松本を加えて「劇画工房」という団体が発足。以下の「劇画宣言」を漫画家や出版社に向けて発表した。

劇画工房ご案内
常に世の中は移りつつあります。鳥羽僧正に端を発したといわれる漫画界も日進月歩、昭和になって大人漫画と子供漫画とジャンルが二分され、大人漫画の中でも政治漫画、風俗漫画、家庭漫画、ストーリー漫画と樹木の如く、それぞれ方向を異とするものにわかれました。

子供漫画の世界でも同じく、その読者対象によつてその分野が広がりました戦後、手塚治虫氏を主幹とするストーリイ漫画が急速に発達し、子供漫画の地位が向上、進歩の一途をたどりました。

最近になって映画、テレビ、ラジオにおける超音速的な進歩発展の影響をうけ、ストーリィ漫画の世界にも新しい息吹がもたらされ、新しい樹が芽をふきだしたのです。

それが“劇画”です。
劇画と漫画の相違は技法面でもあるでしょうが、大きくいって読者対象にあると考えられます。子供から大人になる過渡期においての娯楽読物が要求されながらも出なかったのは、その発表機関がなかったことに原因していたのでしょう。劇画の読者対象はここにあるのです。劇画の発展の一助は貸本店にあるといってもいいと思います。

未開拓地“劇画”
劇画の前途は洋々たるものがあります。それだけに多苦多難なこともありましょう。ここに望まれるのは劇画ライターの一致協力です。

この主旨にもとずいて、このたびTS工房、関西漫画家同人、劇画工房が合併、同志の劇画ライターが協力、新しいシステムによって劇画工房なる機関が発足いたしました。
劇画工房のあり方というものを理解下さって諸兄のご声援をおねがいします。

劇画工房 さいとうたかを 佐藤まさあき 石川フミヤス 桜井昌一  辰巳ヨシヒロ 山森ススム K・元美津
wikipediaより(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%87%E7%94%BB%E5%B7%A5%E6%88%BF)

この宣言にある通り、劇画工房のメインターゲットは「子どもから大人までの過渡期にある青年期の人たち」だった。ざっくりいうと大学生。つまり、劇画は当初、大学生たちのものだったわけである。

「劇画工房」は1年ほどで解散となるが、この宣言のインパクトはヤバかった。1960年代中ごろから劇画ブームが来る。

ブームになった背景には「劇画工房のメンバーが、すでに貸本漫画家として売れっ子であり、影響力が大きかったこと」「手塚治虫を失った『週刊少年マガジン』が劇画路線に方向転換したこと」などがある。まさに実力と運が重なったわけだ。

「巨人の星」や「あしたのジョー」「タイガーマスク」などのヒット作を皮切りに、1960年代はもうがっつり劇画一色。ここで遂に念願が叶って「大学生向け」のハードボイルドな漫画が完成するわけですな。

つまりさいとう・たかを先生は「青年漫画」というジャンルを作った立役者の1人なわけです。

「ゴルゴ13」という「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」ギネス記録の漫画

ゴルゴ13

そんな劇画ブームの真っただなか、1968年に連載を開始したのが「ゴルゴ13」である。「俺の後ろに立つな」の殺し屋・デューク東郷がシブーくターゲットを殺っちゃう話ですね。ちなみにデュークは「俺の後ろに立つな」と言ったことがない。

清々しいくらい余談だが、私は満員のエレベーターに最後に乗ると「大丈夫かな……ズボンのケツんとこ破れてねぇよな……」と、ちょっと不安になるタイプです。そういった意味では「俺の後ろに立つな」なんですけどね。もう「振り返って眉間を射抜いたろうかな」とか思うこともあるんですけどね。改行してまで描く話じゃないですねコレ。

さて、ゴルゴ13は、2021年7月に「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」」としてギネスに認定された。53年間で201巻ですよ。マジでハンパじゃない大記録です。しかも、なんと一度も休載せずに52年間、2020年まで連載していた。

なんで数十年間にわたって、同じ漫画を描くのは難しいのか。その理由を考えてみた。

・単純に飽きちゃうから
・時代性についていけなくなるから(読者との乖離)
・鬼のハードワークすぎて休まざるを得ないから
・「次の展開」が出てこなくなるから

ゴルゴ13は「プロダクション方式」を取り入れることでこれらの課題を解消したんですね。では具体的に「プロダクション方式とはなんぞや」ってのをみてみよう。

さいとう・プロダクションという革命

さいとう・プロダクションのロゴ

ゴルゴ13という作品はさいとう・たかを先生が「1人で黙々と……」というスタイルで作ったわけではない。彼は1964年に「さいとう・プロダクション」を立ち上げて、脚本担当、編集担当、という感じで業務を分けていたのである。

先述したように「漫画家」という職業は基本的に地獄だ。わけわからんくらい業務領域が広い。まず設定やキャラデザをつくって、各話のストーリーを考えて、ネームを書いて、編集者にチェックしてもらい修正をして、絵を描いて吹き出しを描いて編集者に見てもらいOKだったら印刷・発刊して世に出るわけです。

設定やキャラデザをつくって〜とか、絵を描いて〜とかサクッと書いたが、コレも生半可なことではない。キャラデザは詳細なペルソナを決めたうえで、着る服や口癖などを決定していく。また「絵を描く」といっても、下書きがあり、ベタ塗りがあり、ホワイト(修正液)があり、背景とメインがあり……と、細かく工程が分かれている。

編集者やアシスタントといったパートナーがいるものの、この工程をほぼ一人で完遂しなければいけない。よくよく考えたら何人分働いてんだって話ですよね。ちょっとあり得ない忙しさなんですコレ。常人なら耐えられずに1日8回くらいゲロ吐いて、這いずりながら退職するレベルだ。

同じ娯楽だと、マンガに最も近いコンテンツはおそらく映画で、もともと大正時代にコマ割りを完成形に仕上げた岡本一平(岡本太郎の父ちゃん)も、最初は「映画小説」と名乗っていたくらいで、映画のフィルムから、現代マンガのコマ割りはできた。

ハリウッドは1つの脚本すら数人で作る

映画を作るためには、ストーリー、画、カメラ・照明、音楽・音響、演技などを上流から作っていく。マンガと同じように複数の工程に分かれている。コレを全部1人でやるのはデビュー時の園子温くらいだ。変態すぎるだろ。

ほとんどの場合は各セクションにプロフェッショナルがいて、みんなで協力しながら作るわけです。つまり映画は基本的に分業制なんですよね。

ちなみにコレがハリウッドになると、例えば長編映画のストーリーを10等分して「はーい、じゃああなたAパートのプロット作ってきてねー、あなたBね〜」と、各セクションをさらに細かく分けている。

何故そうするのか、というと単純に「そっちのほうが速いから」だし「そっちのほうが疲弊しないから」である。設定さえしっかりしていれば、ストーリーは複数の人間で作れるのだ。

以下の記事でもその話に触れてます。


さいとう・プロダクションはこの映画の分業制を、いち早くマンガ家として取り入れたわけだ。コレめちゃめちゃ偉いと思います。

まず漫画家の仕事が格段に楽になる。寝る時間が増えて健康になって寿命も伸びるだろう。すると憧れる高校生が増えるかもしれない。また同時に漫画をつくるスピードが早くなる。するとたくさん描ける。その分ファンが増えて漫画業が栄える。いいことづくめなんですコレ。

ただもちろん「スタッフの給料どうするんだ問題」がある。ゴルゴ13のようにずーっと固定で連載があればいいが、多くの漫画家の場合はアシスタントの給料でいっぱいいっぱいだ。CLAMPしかり、このシステムは「もともと同人サークルだったパターン」が主流なのかもしれない。

あるいはもう「働き方改革」はできあがっているのかも。いまはほとんどの漫画家がタブレットなどのデジタルデバイスでマンガを書いている。昔よりは個人でも時短で働けるようになった。今後はコレで十分なのかもしれん、ともいえる。

しかしそれにしても、さいとう・プロダクションという存在は、とんでもなくクリエイターに優しい存在だと言えるだろう。

漫画の時代を開いたさいとう・たかを大先生

こう、偉業を振り返ってみると、さいとう・たかを先生はすげぇ。漫画の歴史をつくり、漫画家の働き方を作った偉大な存在であることが分かる。

私はなかでも「劇画」という時代を作ったことに感動を覚える。年末に松本正彦氏が描いた「劇画バカたち!」を読んだが「大人向けの漫画を描くこと」の背景にはとんでもない格闘があったんだな、と感服した。

ただでさえ自転車操業の貸本屋が、バタバタ潰れながらも劇画を出していくのだ。もう編集者の家族とかしっかりめに離散する。それでも劇画を立ち上げた背景には、まだ「売れるマンガ」のフォーマットが確立されていない時代だからこその熱があったに違いない。超かっこいいんです。

松本正彦著『劇画バカたち!!』

ちなみに『劇画バカたち!!』でさいとう先生は、めっちゃ大酒飲みで昼間はグータラしているが、深夜になると異常なほどの集中力で原稿を書き上げる天才として描かれている。

正直読みながら「よくこんな生活をして84歳まで生きられたな」と思った。しかしよくよく考えると彼にはそれ以上のバイタリティがあったのだろう。そりゃ長生きする。なにせ晩期まで原稿に向かっていたわけだ。

この熱量があったからマンガ界を変えられたわけで「好きなことに夢中になる」ってやっぱり大切だな、と。正月からなんだかやる気に満ち溢れちゃうなこれ、と。

今年もいろんな大人向けマンガが出てくるだろう。その時には、劇画の歴史とか、マンガ家の働き方なんかを、ぜひ思い出していただきたい。

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