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なぜ自己否定な、ネガティブ思考をしてしまうんだろう?

人はなぜ、少なくとも、私はなぜ、
ネガティブ思考をしてしまうのか?

思考の傾向はあくまで、クセ。
ということも押さえた上で、
当たり前過ぎることについて
考えてみたい。

たとえば、
何かでテストを受ける。
結果がでる。点数が出る。
不合格となる。
この時、自分の力をどういう風に
捉えるか?は、
まさに個人の主観ひとすじですね。

いやあ、自分には、
もう1年勉強を重ねるべき
まだまだな領域があるんだな?
とポジティブに感じ取れるか?

もうさんざん、自分は
ダメだな、もう1年また
こんな勉強をするなんて、
考えるといやになるなあ、
ととらえるか。

あるいは、こんなケースは
どうでしょうか?
職場で人とどうしたら
きちんと関係性ができるかな?
全然わからなくて困ってる。
みんなから関心もたれている?
いや、いない?
きっと影が薄いから、
無関心なんだろうなあ?

職場は居づらいなあ。
居場所がないなあ。

こうした思考って、
ネガティブなタイプの人には
もう日常茶飯事のように
次から次へと湯水のように
頭から出てきませんか?

少なくとも、私は出てきます。

でも、主治医にいうと、
これは、そういう習慣やクセを
もっている、ということで、
病気でも障がいでもない。
私だけが「生き辛い」訳でもない。
クセは、なぜ身についたのか?というと、
それが自分には楽に感じるから?
ではないでしょうか?

つまり、自己否定や自己破壊、
それから自分はダメダメ星人だという
スタンスでいるのが「楽」だから、
そういう思考をしてしまう。

うーむ、なるほど、、、、。

なぜ、では自己肯定、自己賞賛的な
考え方を今までしなかったのか?

それは、
ポジティブに自分を捉えるのは、
「詰まらない」場合が多いんです。
自分はすごい、
自分はモッてる。
自分には○○がある。
まあ、月並みな形容しか浮かばない。

ところが、
自己否定やネガティブな思考は
自分は特別な存在だという
意味合いを持ちやすい。
私は○○で生き辛い。
貧困、格差、家庭暴力、
様々なメンタル疾患、
様々な差別、
それらはご本人に大変辛いことで、
そんな被害の方々がみな
ネガティブ思考かというと
そんなことは全然ないのですが、
私みたいに、二十歳くらいに、
太宰治にハマッて、
愛情コジキだ、かたわ人間だ、
文学的にもがいてただけの者が
一番たちが悪いなあ。
生きる不器用さを
自分のアイデンティティに
してきてしまってたような…。
今思えば、ですけどね。

幸福な人生は平凡な言葉で
言い尽くすことができるけど、
不幸な人生は多種多様で、
表現する言葉も語彙も
実に豊かになる…
たしかトルストイの書いた
『アンナ・カレニナ』の冒頭も
こんな具合だったような。

自分はどこまでも
特別な存在でいたい、という
感覚を常に持ちたいなら
ポジティブ思考より、
ネガティブ思考で生きるほうが
自分の「特別さ」が守られる、、、。

さて、話は相当それました、汗。
ネガティブ思考は、クセである、
と、冒頭で書きました。

これは私の言葉ではなく、
主治医やカウンセラーが
口をそろえて言う
現代のメンタルヘルスの
常識になりつつあります。
もうなってるかな。

そんな知見があるならば、
できれば取り入れていたいですね。
それで、私がここ数週間、
試しているのは、
「うわ、この人、俺が嫌いだな?」
「人と仲良くやるのが苦手だな?」
といったネガティブな思考をもった時、
「だけど、、、、」
と自分の思考を一度、保留にして、
「果たして、それが本当なの?
ちがう解釈もない?」
と最初の自分の思考とは違う
考えをしてみたら?
と促すようにしてるんです。

必ずしも、無理矢理、
ポジティブな思考になる、
というのは洗脳みたいで
そうはしたくないけど、
今私が瞬時に抱いた思考は
それはそれで一旦わきに置いて、
ちがう思考や判断はないかな?
と自分のポテンシャルを
ちょっと試してみる。

すると、ですね、
すぐにはポジティブな
思考や感覚は出ないけど、
あくまで、最初のネガティブ思考は
あくまでひとつの仮のものだな?
って思えるようには、なってきました。
おそるべき「だけど、、、!」思考(笑)。

これは、お笑い芸人の
アンタッチャブル山崎が、
淀んだり沈黙した空間や場所、
つまり、誰がかスベった時に
活気良くかき回すために、
「だけど、、、、」と言って、
後を誰かが促すように繰り返すのを
思い出したんです。
お笑いも時にはメンタルに効く?





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