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インタビューは時に暴力になる?!

書くことは暴力と無縁ではない。
書くことは時に暴力になる。

いきなり、物騒な話から
始めてしまい、恐縮です。

先ほどから、私はマクドナルドで、
社会学者・岸政彦氏の本を読んでいて
ある箇所で、
ページをめくる手が止まりました。

ここ1年近く、私は仕事のため、
様々な人にインタビューを
繰り返してきました。

インタビューでは、
聞くべき質問を先にしっかり決め
臨む場合が多いのですが、
それは、インタビュー対象者の
素顔を見出すというより、
こちら側が望んでいるイメージに
持っていくため、 
つまり、インタビュー対象者を
誘導していくためです。

前から、私は
このインタビューの事前質問が
なんだか自分勝手だなあ、
と思っていました。

しかし、昔から、
インタビューとは
そうやって対象者を
誘導してあげなくては
うまく行かないという、
業界的な暗黙のルールがあるんです。
それがどうも、
身勝手といいますか、
予定調和な起承転結を得たい
ためだろうと、抵抗がありました。

なぜ、インタビュー対象者も
インタビュイーも
その場で感じたり
思ったりすることを、
即興アドリブて、
もっと楽しみながら
インタビューをしないのだろう?
そんな違和感がずっとありました。
 
でも、インタビューページを作る場合、
まず想定質問を先に、
編集側が用意するのが、
基本になっているんです。

インタビューは、
対象者に話を聞き出し、
その音源を文字に書き起こし、
適量の文字数にし、記事にします。
その際、話が矛盾していてないか?
また、強引に対象者の夢などを
誇張してはいないか?
チェックするのですが、
たいてい、上司というのは
予定調和、つまり、
起承転結のテンプレートな型に
当て嵌めようとするものです。

話を直に聞いてきた人間には
その型に嵌める様は、
笑止千万なのですが、
やはり上司というのは、 
想定通りの流れを欲しがる。

これに対して、
インタビューした人も
インタビューされた人も、
そんな、ありがちな、
型に嵌めたような記事には
されたくないのですが、
毎回、上司に振り回される(汗)。
予定調和の起承転結がない原稿には
まずOKを出さない。

岸政彦さんは社会学者として、
様々な職業の人に
フィールドワークをしてきた人、
いわば、その専門家です。
インタビューをし、
それを書き起こして、
社会学の学問的標本に落としこむ。
この時に、
岸さんの希望や都合で、
ささやかな現実を無視して
一般化したり全体化することは
時には「暴力」になる、、、。
岸さんはそう戒めている。

私はその文章を読んで、
うわ!それ、私もやってるかも?!
と、心で謝っていました。
 
私はこのnoteで、時々、
誰かのことを書くこともある。
それはよほど慎重にせねば、
強引な全体化になってしまう。
強引な一般化になってしまう。

結論により力強さを持たせるには
つい誇張気味な結論にしがちだ。

自分自身の話をする場合はいい。 
問題は、他人について書く時ですね。

一般化、全体化は、
読者側には、インパクトが出て
読みやすいし、興味をそそられる。
そのために、複雑な現実の機微を
無視したものにしてしまう。

このことについて、
岸政彦さんは、「暴力」という
言葉を使っている。
私にはそこが大きな発見でした。
 
読みやすいけど乱暴な記事を書くか、
慎重に語ろうとした地味な記事にするか、
一概にはどちらがいいとか、
まちがっいるとか言えませんが、
現実は時に単純化できないし、
単純化しない方がいい場合もある。

ペンは剣より強し、という面の裏には、
ペンは暴力にもなる、と書き添えたい。

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