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【作家】川端康成が生んだ傑作は、北條民雄という作家?

川端康成……というと『雪国』
『伊豆の踊り子』『山の音』。

日本人初のノーベル文学賞作家
という言葉が浮かぶ。
昭和の文豪ですね。

川端康成には、でも、
それでは語り切れない一面が、
しかも、自分からは
作品に残してない一面がある。

30台の頃、ブレイク中の
川端康成に一通の手紙が届く。
文学を志す無名の青年からの、 
尋常ならぬ切実な手紙が。

以後、川端康成はその青年を
4年にわたり手紙で励まし続けた。
青年は19歳でハンセン氏病にかかり、
文学を命綱にして、
恐怖や悲しみ、自殺願望と
戦い続けた、後の作家、北條民雄。

最近、彼の作品集が
岩波文庫になりましたね。

彼は病にかかったとわかるや、
故郷では戸籍を抹消され、
多摩の国立療養所に収監された。

当時のハンセン氏病患者は、
まるで療養所では「囚人」扱い
だったそうで。
そこには「医術」の心は
通っていなかった。

毎日、自殺を考える北條民雄は 
川端康成を
文学の師として尊敬し、
手紙を出したら、返事がきた。

北條さんは、励みになり、
自作を送るようになる。

川端康成は、
あなたの手紙は読む、必ず読む、
と、北條民雄に返事し続けた。

川端からの返事を信じる気持ちが
北條さんを明日へ明日へと生かした。

そして、川端は
北條民雄の、作家としての才能に
次第に惚れこみ、
送られてくる作品を、
出版社に推薦しに回る。

多忙な人気作家が、
なぜそこまで、赤の他人で、
無名の若者に、
しかも当時ハンセン氏病の偏見は
凄かった時代に、そこまで
親身になり続けたのだろう。

よほど、北條民雄の才能に
惚れたのだろう。

川端と北條民雄の間には、
90通もの手紙が往き来したそう。

当時、ハンセン氏病の
療養所からの郵便物は、 
療養所から出る際に、
紙が消毒されていたという。

でも、川端康成は気にしなかった。
北條民雄は消毒されてるから
どうか安心をと手紙に書いた。

当時はハンセン氏病の患者が
書いた紙に触わるだけで、
病が移ると思いこまれていた。
明らかに、これは伝染病への
無知や誤解です。

ある日、志賀直哉が、
川端康成の部屋にやってきた。
そこで、北條の原稿用紙を見た時、
うつるから…と恐れ、
逃げ帰ったというエピソードも。

志賀直哉は、原稿用紙からの
空気感染をすら恐れたのだ…。

志賀直哉の情けなさ。
「小説の神様」と呼ばれながら。 

私はこの逸話を聞いてから、
志賀直哉を尊敬できなくなった。

時代の常識(病への恐怖)から
自由な、ただただ才能だけを見て
評価した、川端康成は凄い。

北條民雄の作品は、
川端の尽力もあり、
存命中に文学賞に輝き、名声を得た。 
『いのちの初夜』は文庫で今も読める。

その後、残念ながら23歳で
北條さんは結核にかかり亡くなる。

療養所で密やかに葬儀は行われたが、
後日、川端は多摩の療養所に、
供養に訪れている。

今の西武池袋線の清瀬駅は、
あったろうか、なかったろうか。

これも、当時の偏見や
川端康成の多忙さを考えると、
療養所の医師やスタッフらには
信じられない「奇跡」だった。 

川端康成のなんて自由な姿、
何ものにも捕らわれないまなこ。

川端さんを虜にしたのは、
北條民雄の透き通るような、
むき出しの才能だったでしょう。

私は23歳の時、
当時付き合っていた彼女がいて、
とっておきの桜の名所が
あるからと誘われ、
何も知らず、
多摩の国立療養所「全生園」に
行きました。
北條民雄がいたところです。

民家、スーパー、図書館、記念館、
そして墓地もあり、
何でもそろった不思議な場所だな、 
という不思議な気持ちで、
敷地を歩いて回った。

桜が咲いていた。
何十本もの桜が。
よく手入れされていたんでしょう。
あたりが光り輝いて見えた。

ハンセン氏病の事は全く知らず、
ただただ、桜を見た。
桜は命を謳うように、咲いていた。

透き通るように美しい、
雑音のない桜。 
えもいわれぬ桜でした。

北條民雄がいたのが、
まさにその清瀬のあの療養所だと
知ったのはずっと後…でした。

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