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修羅の家

20240427

殺すか。その誘惑に、必死で抵抗せねばならなかった。
こいつは危険な女だ。今すぐ殺そう。その方がいい、と本能が告げていた。
この女は危ない、近寄るな。警戒信号が大音量で鳴り響いていたが、俺はそれを無視することに決めた。
これが俺と彼女の出会いであり、無間地獄の始まりだった。

「そりゃあ、あたしがあんたを気に入ったからで、あたしがいい人だからじゃない。もしあたしがあんたを気に入らなかったら…とてもあんたはあたしのことをいい人だなんて言えないことになってたろうね」
余りにも自然な台詞だったので最初は聞き流したが、その意味するところに気づいてぞっとした。

「早くこんな不幸な話し忘れちゃってどこか、中東の話だとでも思えばいいよ。中東にいる子供がどんなに悲惨な目に遭ってるって聞いたところで、今日の晩ご飯より大事なんてこと、ないでしょ?それと一緒」

遠い目をして溜息をつく。
「――あいつが居座るようになってから半年くらいの時だったかな。みんな一番おかしくなりかけてた時だった。目撃者の話だと、横断歩道で、赤信号なのにフラフラって道に出て行ったって。
遺書がなかったし、わたしたちも何も思い当たりませんって言ったから、事故ってことになったけど、ほんとはみんな分かってた。あの人はここから逃げたんだって。今ではちょっとあの人が羨ましいとさえ思う。 本当の地獄を見ないで済んだんだから。あの時わたしたちは、あの人の後を追うべきだったのかもしれない。でも多分、みんなあの人の姿を見て、死にたくないと思っちゃったんだと思う。あの時みんな目の前のものを見ないようにして生きることを選んじゃった。もう少し我慢すればきっと何かよくなる。そんなふうに自分を騙してずるずるとわたしたちは生き延びたけど、代わりにもう死にたいっていう気持ちさえなくしちゃった」

ぼくには「絶望」などという言葉は無縁だと思っていた。なぜなら、この世の中に希望など持ったことがないからだ。 何かを期待して裏切られるから、人は絶望する。何も期待しなければ裏切られることもないし、絶望することもない。そう思っていた。間違いだった。何一つ期待していないこの世で、それでも大切にしていたものはぼくにもあったのだ。自分自身さえもうどうなってもいいと思っていたのに、想いを寄せていた人を襲った不幸が、どうしてこんなにもぼくを苦しめるのか。

いざとなったら力ずくででもどうにかすればいいと思っていたものの、完全に服従したようなふりを続けている間に、少しずつ少しずつ反抗する気力は削がれ、今やこの生活に奇妙な安心感さえ抱いている。 服従したふりを続けていると、心も少しずつそうなってしまうのではないか。

確かに身体を鍛えはしたし、殴り合いも何度もやった。暴力に対する耐性はついた。しかし何よりも変わったのは、肉体の痛みや死ぬことへの恐怖だ。苦痛がないわけはない。今も次々加えられる蹴りに、苦痛の呻きが漏れるのを止めることはできない。しかしどこかで冷静だった。ここで死ぬならそれもまた仕方ない。俺はかつて一度自分を捨てた。あの時に既に死んでいるのだから。そして男は俺を殺す気はないと言っているし、それは本当だろう。それなら俺はただこの苦痛に耐えればいいのだと思った。一度死んだ人間にとって肉体の痛みなど何ほどのものでもない。俺はひたすら耐え続けた。








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