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文化がヒトを進化させた

20240611

■まとめ

①ヒトは適応力の高い文化学習者であり、同じ共同体の他者から、アイデア、信念、価値基準、社会規範、動機、世界観などを学んで身につける。その際には、名声、実績、性別、方言、民族性などを手がかりにして模倣すべきモデルを選び、食物、性行動、危険、規範違反などに関わる領域に特に注意を向けて学ぶ。こうした傾向はとりわけ、不確実な環境下にあるとき、事態が切迫しているとき、ストレス下にあるときに強まる。

②しかし、ヒトは何でも無節操に模倣するわけではない。なじみのない物を食べる、あるいは死後の世界を信じるなど、コストを伴う習慣や非直感的な信念を採用するには、信憑性ディスプレイ(CRED)を必要とする。つまり、手本となる人が、激しい苦痛や大きな財政的痛手などに耐え、身をもってその信憑性を示す必要があるのだ。CREDは、苦痛を快感に変え、殉教者を最強の文化伝達者にする力をもっている。

③ヒトは、高いステータス(社会的地位)を求めるが、その決め手となるのがプレスティージ(信望・名声)だ。しかし、プレスティージを高める行動や行為はさまざまで、勇猛果敢な戦士にも、清貧従順な尼僧にも、高いプレスティージを得ている者がいる。

④社会規範を習得するとたいてい、動機が内面化されて、世界の見方(ひいては注意の向け方や記憶の仕方)が変わり、他者に対する判断や処罰の基準も変わってくる。人々の選好や動機は常に一定ではないので、政策や事業計画の立て方しだいで、人々が無意識かつ直感的に欲するものを変えることができる。

⑤ヒトの生得的心理にうまくはまると、社会規範はとりわけ強い力を発揮し、廃れることなくいつまでも維持される。しかし、そうでないものは定着しにくく、例えば、外国人を公正に扱うことを求める社会規範は、母親に子どもの世話を義務づける社会規範に比べて、広めるのも維持するのもはるかに難しい。
社会規範は、ヒトのさまざまな生得的心理をうまく利用している。血縁者びいき、近親相姦に対する嫌悪、助け合いの精神、肉を避ける傾向、つがい形成の欲求などである。儀式もまた、ヒトの生得的心理の諸側面に強く訴えるよう、文化によって生み出されたものだ。

⑥イノベーションの成否はひとえに、集団脳を拡大できるかどうかにかかっている。そして、集団脳をどれほど拡大できるかは、新たなアイデア、信念、洞察、習慣をどんどん生み出して、互いに共有し、いろいろ組み合わせることを促すような、社会規範や制度を構築し、人々の心理を醸成できるかどうかにかかっている。

⑦ヒトの社会はそれぞれ、社会規範も、制度も、言語も、テクノロジーもまったく異なり、当然ながら、物の考え方も、経験的な判断も、動機づけも、情緒反応もそれぞれ異なる。それゆえ、よそから公式な制度を持ってきて押しつけても、その社会にうまくなじまない。したがって、そうしたお仕着せの制度を導入しても思惑どおりには行かず、効果はおそらく全く上がらない。

⑧ヒトは、効果的な制度や組織を意図的に作り上げるのが苦手だ。しかし、ヒトの本性や文化進化についての理解が深まるにつれて、それが克服されていく。それまでの間、私たちは文化進化の作戦に倣って「多様化と選択の手法」をとるべきだろう。さまざまな制度や組織を互いに競わせるのだ。役に立たないものは駆逐され、優れたものだけが残っていくうちに何らかの道が開けてくるに違いない。

■詳細

何よりも意外なのは、特大サイズの脳をもっているにもかかわらず、人間はそれほど聡明ではないということだ。少なくとも、ヒトという種が地球上で大成功を収めている理由を説明できるほど、生まれつき賢いわけではない。

人類の成功の秘密は、生まれつき備わっている知能にあるのではない。では、狩猟採集民だった人類の祖先がいつもさらされていたような問題に直面すると、特殊な知能が発揮されるのかと言えば、そういうわけでもない。そもそも、地球上のありとあらゆる環境で生存し、繁栄することができているのは、個々人の知能によるのではない。

ヒトという種は文化への依存度を高めながら進化してきた種である。そんな動物はヒト以外にはいない。ここで言う「文化」には、習慣、技術、経験則、道具、動機、価値観、信念など、成長過程で他者から学ぶなどして、後天的に獲得されるあらゆるものが含まれる。

ピグミー族は背丈は低くて小柄だが、はるか昔からアフリカの熱帯雨林で繁栄を続けてきた。なぜそれができたのか?熱帯雨林で生存し繁殖するのに欠かせない知識や技能が、先祖代々連綿と受け継がれてきたからなのだ。
人類進化のプロセスや、他の動物とこれほど異なる理由を理解する上で何よりも重要なのは、人類文化に依存している種である、と認識することだ。

人類の祖先たちは互いに他者から学び、それを文化として蓄積していくようになった。つまり、狩りの仕方や、道具の作り方、獲物の追い詰め方、食用植物の知識などを他者から学んでは改良を加え、前世代から受け継いだ技術や知識に磨きをかけて、次世代に伝えていくようになったのだ。

有用な技術や習慣が何世代にもわたって蓄積され、改良が重ねられていくようになると、文化習得に秀でた個人が自然選択において有利になった。つまり、常に増えつづける情報を、うまく取り入れて利用できる個体が生き残るようになっていったのだ。そして、この新たに登場した文化進化の産物、火、調理法、切断用具、衣類、身振り語、投槍、水容器といったものが主要な選択圧として作用し、ヒトの脳や身体に遺伝的な変化をもたらした。この文化と遺伝子との相互作用、文化遺伝子共進化と呼ぼう。

ヒトがもっている、他者から学ぶ能力それ自体が、磨きぬかれた自然選択の産物なのだ。ヒトは適応力の高い学習者で、生まれて間もない時期から、どういった場合にはだれから何を学べばよいかを慎重に選んでいる。その後、大人になるまでずっと、名声、実績、力量、性別、民族性などを手がかりに、無意識かつ反射的に、注目すべき相手を選んで学び続ける。そして、相手の嗜好、動機、信念、戦略、賞罰基準などをたちまち自分のものにしていくのである。

こうした選択的な注意と学習のメカニズムが働くことによって、個々人が記憶して次世代に伝える内容が方向づけられ、文化は目に見えないところで進化を遂げていく。同時に、文化的情報の蓄積と遺伝子の進化との相互作用によって、ヒトの身体の構造や生理心理が形成されていく。そのプロセスは今もなお進行中である。

生存に有利な文化的情報を獲得する必要性が高まったことによって、脳容積の急激な拡大が促され、そうした情報をすべて蓄えて整理するスペースがもたらされた。同時に、幼年期と閉経後の生存期間が長くなって、こうしたノウハウのすべてを習得する時間と、それを次世代に伝える機会が与えられた。文化の影響は、ヒトの身体の至る所に見てとれる。

ヒトは複雑で巧妙な文化進化の産物にすっかり頼って生きるようになり、今日では、自分の経験や天性の直感力よりもむしろ、所属する共同体から学んだことを信じるようになっている。実際、人知を越えたところで進行する文化進化の選択のプロセスは、個々人が知恵を絞るよりも賢い「解決法」を生み出してくれるのだ。

生存や繁殖に有利な情報が人々の頭脳に貯えられていくにつれて、ヒト社会には、それまでになかった新たな社会的地位が生まれた。プレスティージ(信望・名声)に基づく地位である。ヒトの社会では現在、祖先のサルの時代から引き継いだドミナンス (腕力・権力)に基づく地位と並んで、プレスティージが力を奮っている。

社会的地位以上に、ヒトの遺伝子を取り巻く環境を変化させたのが、文化が生み出した社会規範だった。親族関係、結婚、食物分配、育児、助け合いなど大昔から最重要だった領域も含め、広範囲にわたるヒトの行動が社会規範の影響を受ける。人類の進化史を通してずっと、社会規範はヒトの行動を規制してきたのだ。食のタブーを無視する、儀式をないがしろにする、姻戚に狩猟の分け前を与えないといった規範破りを犯すと、評判を落とし、陰口を叩かれ、結婚の機会や仲間を失うはめになった。たびたび規範破りを犯すと、村八分にされ、場合によっては村人の手で処刑されることもあった。
このようにして、文化進化によって生まれた自己家畜化のプロセスが、ヒトの遺伝的な変化を促し、その結果、私たちは向社会的で、従順で、規範を遵守する動物になっていった。共同体に監視されながら社会規範に従って生きることを、当然のこととして受け入れるようになったのだ。

人類の成功の秘密は、個々人の頭脳の力にあるのではなく、共同体のもつ集団脳(集団的知性)にある。この集団脳は、ヒトの文化性と社会性とが合わさって生まれる。つまり、進んで他者から学ぼうとする性質をもっており(文化性)、しかも、適切な規範によって社会的つながりが保たれた大規模な集団で生きることができる(社会性)からこそ、集団脳が生まれるのである。狩猟採集民のカヤックや複合弓から、現代の抗生物質や航空機に至るまで、人類の特徴とも言える高度なテクノロジーは、一人の天才から生まれたのではない。互いにつながりを保った多数の頭脳が、何世代にもわたっで、優れたアイデアや方法、幸運な間違い、偶然のひらめきを伝え合い、新たな組み合わせを試みる中から生まれたものなのだ。

高度なテクノロジーや複雑な社会規範と同様に、複雑で精緻な言語もまた、文化進化の産物であり、こうした情報伝達手段の出現によって、ヒトの遺伝的進化が大いに促された。

言語にせよ道具にせよ、文化進化の産物はどれもみな、私たち個々人を賢くしてくれる。

私たちがこうした道具、概念、技能、直感的な経験則(ヒューリスティクス)などを持っているのは、ヒトが賢い動物だからではない。文化によって生み出された膨大な道具、概念、技能、ヒューリスティクスなどのおかげで賢くなっているのだ。ヒトを賢くしているのは文化なのである。
文化は、ヒトの遺伝的進化の多くを駆動し、「自己プログラミング」を可能にしただけではなく、遺伝的変化とは別のやり方でヒトの生理や心理に入り込んでいる。文化は、長い歳月をかけて少しずつ、制度、価値観、世評、技術といったものを取捨選択することによって、ヒトの脳の発達や、ホルモン応答、免疫反応に影響を及ぼしてきた。また、文化的に構築された社会に適応しやすいよう、ヒトの注意の向け方、知覚、動機、推論法に調整を加えてきた。

ヒトの脳は、言語ルールを含めた社会規範の影響を受けながら鍛錬され、形成されていく。海馬を大きくしたり、脳梁を太くしたりと、そのプロセスは多岐にわたる。

遺伝子は変化していなくても、文化進化によって、集団間に生物学的差異や心理学的差異が生まれる。

私たちの知能も、その欠陥も、ヒトの脳の進化の過程を理解すれば予測できるものばかりだ。ヒトの脳は、増大し続ける文化的情報を収集、蓄積、整理、伝達する能力が決定的な選択圧となる世界のなかで進化し巨大化していった。ヒトの文化的学習能力は、自然選択の作用と同様に、何世代にもわたって作用し続けて、一個人もしくはグループでは生み出しえないような賢い習慣を生み出す。ヒトの知能のように思えるものの多くは、天性の知力でも、本能でもない。実は、先祖代々文化として受け継がれてきた膨大な知的ツール(たとえば整数)や、スキル(左右の区別)、概念(弾み車)、分類体系(色名)などによってもたらされているのだ。

■社会的学習
個体が他者の影響を受けながら学習することを意味する。社会的学習にはさまざまな心理プロセスが含まれる。

■個体学習
個体がその環境を観察し、環境と直接作用し合うことによって学習する場合だ。ある獲物の出現時期を自ら観察して狩猟の適期を見計らうのもそうだし、いろいろな穴掘り道具を実際に使ってみて試行錯誤を重ねるのもそうだ。したがって、個体学習にも当然さまざまな心理プロセスが含まれる。

■文化的学習
社会的学習の中でも、より複雑で高度な能力を要する学習で、他者の選好、目的、信念、戦略を推し量ることによって、また、他者の行動や動作を模倣することによって情報を得ようとするものだ。

文化や文化進化は、他者から学ぼうとする遺伝的に進化した心理的適応の結果なのである。つまり、他者から学ぶ能力を備えた脳をつくる遺伝子に対し、自然選択が有利に働いたのだ。こうした学習能力が、集団内で長期にわたって発揮されると、便利な道具をまねて作ったり、動植物に関する豊富な知識を共有したりといった、数々の適応行動が生まれてくる。こうした行動はそもそも、学ぼうとする頭脳が集団内で長期にわたって相互作用を繰り広げた結果、意図せずして生まれたものだ。

こうした学習本能は極めて幼い頃から現れ、無意識かつ反射的に作動するので、模倣本能を食い止めるのほ、困難だ。

文化的学習の影響を受ける領域
・食物選好、食事の量
・配偶者選択 (誰が、どんな特徴が選ばれるか)
・経済戦略(投資)
・人工物(道具)の役割や利用
・自殺(企図・方法)
・テクノロジーの受容
・言葉の意味や方言
・概念分類(「危険な動物」 など)
・信念(神、世界の始まりなど)
・社会規範(タブー、儀式、心付け)
・賞罰の基準
・社会的動機づけ(利他行動や公正さ)
・自己制御
・直感的判断

誰しも、実績などから、見倣うに値すると思われる人物を見つけたら、その人の側にいて、よく観察し、耳を傾け、いろいろと情報を引き出そうとする。情報を得るために、たいてい自分は発言を控えて、相手に発言権を与える。そして、話し方や言葉使いなども、無意識に相手に合わせるようになる。私たち人間が、姿勢やしぐさなど、人々の行動パターンに敏感なのはそのためなのだ。誰が人々の注目を集めているか、誰に発言権が与えられているか、会話の中で誰に敬意が払われているか、人々は誰の声をまねているか等々。これらを手がかりにして、手本とすべき人物を見つけようとするのである。
誰から学ぶべきかを他者から学ぶのだ。

子どもにも大人にも、異性より同性を学習するモデルに選ぶ傾向がある。このような傾向は、子どもが自分の性別を認識するようになる前から現れて、親、教師、仲間、見知らぬ人、そして有名人から学ぶ際にさまざまな影響を及ぼす。
実は、子どもは同性のモデルのまねをしながら自分の性役割を学んでいくのであって、自分の性別を認識した上で同性モデルのまねをするのではない。

また、子どもでも大人でも、自分と同じ民族的特徴をもつ相手から学ぼうとする。幼い子どもたちは、食べ物の好みにせよ、初めて手にする物の使い方にせよ、自分と同じ言語や方言を話す人を手本にしようとする。その人が、英語風の発音でまったく意味のない言葉を喋っていても、やはりその人のまねをする。つまり、子どもたちは、相手の喋る内容がちんぷんかんぷんであろうとも、耳慣れた言葉を話す人から学ぼうとするのである。また、子どもでも大人でも、すでに信念をある程度共有している相手から学ぼうとする傾向がある。

以上のような実験結果から見るかぎりでは、ジェンダー(性別)とエスニシティ(民族性)が同じだと文化的学習の心理が刺激されて、そのモデルの行動や話す内容に興味をかき立てられ、注意力や記憶力が研ぎ澄まされる。

手本にする相手を選ぶときに、有能さや経験の間接的な指標として、また自分との類似性の指標として、年齢を手がかりにするのは、進化論の観点からも理にかなっている。
子どもが何かを学ぼうとするとき、年長の子どもに注目すれば、自分よりも経験豊かな子から学べると同時に、簡単なことから始めて徐々にステップアップしていくことができる。共同体の中で最高の能力と実績をもつ人物(たとえば、狩猟採集民バンドの中で最も腕利きのハンター)が誰だか知っていて、その教えを請うことができたとしても、初心者の多くは、そのハンターの微妙なコツをのみこめるほどの技術も経験もない。むしろ、年長の子どもに注目することによって、技能が自分よりも適度にまさっている子を手本にすることができる。よりスムーズにスキルのステップアップが図れるわけだ。

人間には多数派をまねようとする強い傾向がある。個人の直感や直接体験その他の文化的学習メカニズムによって、集団内に生存に有利な習慣、信念、動機が生み出されていく限り、この多数派をまねる傾向(同調伝達)は、集団内に分散しているそうした情報を集めてまとめるのに役立つ。

ヒトには、特定の人物をモデルに選んで学ぼうとするだけでなく、特定領域の事柄に注意を向けて学ぼうとする心理的能力や傾向が備わっている。それは、食物、火、食用植物、動物、道具、社会規範、民族集団、世評など、人類の進化史を通してずっと重要な意味を持っていたと思われる事柄だ。

ヒトが文化的な種、すなわち文化に依存している動物であるとしたら、最も重要な適応能力の一つは、他者をよく観察してそこから学びとる能力である。他者から学ぶときに欠かせないのが、その相手の目的、選好、動機、意図、信念、戦略など、心の状態を推し量る能力、心を読む能力だ。この認知能力に欠ける者や、認知能力の獲得に遅れをとった者は、きわめて不利な立場に置かれる。なぜなら、早いうちに他者から規範や技能や知識を学んで身につけている者に、とうていかなわないからだ。

社会において駆け引き能力に秀でるためにはまず、他者から学ぶ能力を磨く必要がある。規則がどうなっているのか理解して初めて、規則を曲げたり、利用したり、逆手に取ったりできるのだから。

ヒトはごく幼いうちから、周囲の他者を注意深く観察して、心の認知能力を働かせながら他者から学ぶことに、大きく依存して生きるようになる。また、実績や名声などを手がかりにして、誰を手本にすればよいかをいちはやく見極めるようになる。そして、こうした文化的学習を、自分の経験や持ち前の直感よりもどれくらい優先させるのか、あるいは、手本を選ぶ上で名声や性別にどれくらい重きを置くのかといったこと自体を、自分の経験と他者の観察をもとに按配しているものと思われる。ヒトには、自分の置かれた状況に応じて学び方を調節する能力が必要とされるのである。

ヒトの社会は、どれほど小規模な社会であろうとも、霊長類の社会とは違って、親族関係に関する一連の社会規範のもとに成り立っている。
社会規範の出現が、自己家畜化という遺伝的進化の駆動力となって、ヒトの社会性を急速に高めていった。自己家畜化によって現生人類につながる系統では、協調性や社会性をいっそう強める新たな社会組織が形成されていった。

集団間競争が繰り広げられる中で、集団に利益をもたらす向社会的な規範が続々と生まれていき、よりいっそう複雑な制度が形成された。

文化に促されたこのような自己家畜化のプロセスが、ヒトの心理に影響を及ぼした。

進化論研究者たちは数十年来、ヒトが効果的に協力し合えるのは、血縁選択と互恵的利他行動を促す選択圧のもとでヒトの心理が形成されてきたからであると主張してきた。血縁心理が遺伝的に進化したのは、それが、遺伝子を共有する血縁者を助けるのに役立ち、その結果、利他的遺伝子が広まっていったからだという。また、相互協力行動をとろうとする心理は、自然選択の作用を受けて、他者とのやり取りの中で損得の繰り延べを利用するようになるにつれて、出現したものだという。

一方で、血縁選択説と互恵的利他主義の考え方では、現代社会のような複雑な社会の協力行動をうまく説明できないだけではない。移動型狩猟採集民などの小規模社会で見られる協力行動もうまく説明することができない。ヒトは血縁個体を助け、互恵関係を築こうとする傾向を生まれつきもっていることは確かだが、現実のヒト社会で見られる協力行動は、そのような生得的傾向だけでは説明しきれない。

人々が他者を手本にして文化的に学び、そのようにして身につけた行動、戦略、信念、動機が社会的相互作用に影響を及ぼすようになると、社会規範が出現してくる。社会的相互作用が活発で、実績や名声のある人物をモデルにして学ぼうとする人々から成る集団は、成員すべての行動、戦略、期待、選好がみな似てきて、その共通基準から逸脱すると何らかの罰や制裁を受けるようになる。場合によっては、その基準に収まらないほど秀でた人物を評価するための、別の基準が設けられることもある。いずれにしても、一人二人の力ではどうすることもできないほど安定した行動様式がそこに生まれてくるのである。

規範を犯した者は悪評を立てられることで制裁を受ける。 社会規範を犯したとたんに、その場で制裁を受けることもある。悪評がその後の付き合いに悪影響をもたらす。
個人に相当の我慢を強いることであっても、特定の信念、戦略、動機に支えられている行動は、文化進化の産物である悪評を恐れる気持ちからきちんと守られるのだ。
規範のしつこさである。集団の利益にも個人の利益にもならない規範がそのままずっと伝えられていく傾向がある。それどころか、文化進化の過程で、だれにとっても有害無益な社会規範が生まれて、すっかり根づいてしまうこともある。

社会において個々人が自分にとって合理的な選択を行なうと、社会にとっては不都合な結果が生じる。これを社会的ジレンマと言うが、そうした状況に陥らずにすんでいるのも、社会規範という隠然たる力が働いているおかげなのだ。

ヒトには生まれつき、つがい形成の本能が備わっているが、この本能を律して強化するために生まれた社会規範の集合体が結婚制度である。結婚にまつわる信念、価値観、風習なども制度の一部を成している。この脆さをはらんだ本能による絆を補強する結婚規範があることによって、配偶関係が維持されるとともに、新たな姻戚関係が生まれ、さらに、子どもの父方の親族関係ネットワークが強化される。

結婚にはたいてい儀式や贈り物の交換が伴うが、男女のつがい形成に共同体を巻き込むのが結婚である。つまり、共同体の成員が、結婚規範を犯す者を監視し、制裁を加える第三者になるのだ。本人やその親族が、結婚相手に対してどのような経済的、社会的、および性的な役割や義務を求めるかは、広く共有されている行動規範によって決まるもので、一律ではない。

ヒトの共同体をつくり上げているのは社会規範の力なのだ。 同盟を組んで、助け合い、結婚して、愛し合いといった、メンバーの営みによって成り立っている共同体は、ヒトの社会的本能をさまざまな形で利用、強化、抑制する社会規範によって支えられているのである。ヒトの協力行動や社会性は、文化進化によって生まれた社会規範に大きく影響され、これに深く依存している。この社会規範こそが、ヒトを、他に類を見ないユニークな動物にしているのである。

私たちは、他者の行動を観察して社会ルールを学び取り、少なくともある程度はそれを内面化する。こうして身につけた事柄は、他者に対する判断にも影響するため、循環的な自己強化のメカニズムが働いて、社会的行動についての安定したルールすなわち社会規範が形成されていくのである。逆に言えば 社会規範や信念を剥ぎ取られると、ヒトはこれほど協力的にはなりえず、共同体の形成など望むべくもない。そして、ヒトが他の哺乳類よりも協力的なのは、文化が培った規範がつくる社会環境の中で、長い歳月をかけて、好戦的で反社会的な者(規範違反者)を罰して徐々に排除し、その一方で、従順で社交的な者を優遇してきたからなのである。このようにしてヒトの心理を形成し、イヌやウマのごとく、ヒトを家畜化していった。

社会規範を通じて文化は、ヒトの血縁関係やつがい関係を強化するとともに、遺伝的つながりに基づく小さな親族社会を、文化的に構成された親族システム社会へと劇的に拡大していく。

ヒトに最も近縁な霊長類の一種で、縄張り拡大のための殺し合いが見られるということは、集団間競争は、はるか昔、ヒトが文化的学習に依存するようになる前からあったのだろう。 文化進化が出現したのは、集団間競争がすでに当たり前のようになっている世界だったのかもしれない。
遺伝的変化によって生まれたヒトの文化的学習能力により、文化進化が始まり、さまざまな規範が生まれてきたとき、ヒトはすでに安定した社会集団をつくって生活していたと思われる。

文化進化の過程で、それぞれの集団が、それぞれ異なる社会規範を持つようになる。協力行動を促す規範をもっている集団は、そのような規範をもたない集団との競争において、優位に立つことができる。ということは、長い年月にわたって集団間競争が繰り広げられるうちに、そうした競争に有利な社会規範が蓄積され、まとまっていくことになる。協力行動、援助行動、分配行動、そして集団内の調和維持などからなる社会規範のパッケージである。

集団間競争
①戦争や襲撃
協力行動を促す社会規範をもち、技術面、軍事面、または経済面で優位に立つ集団が、そのような社会規範をもたない他集団を駆逐、排除、あるいは吸収していく。

②集団としての生存力の格差
苛酷な環境下では、協力行動、分配行動、および集団内調和を促す社会規範をもつ集団でなければ、そもそも生き残ることができない。
そのような規範をもたない集団は、そこで絶滅するか、さもなければもっと穏和な環境に撤退するほかない。

③移住者数の格差
社会規範の力によって、集団内調和が保たれて、協力行動が促され、経済生産性が高くなった有力集団には、よその集団から多くの人が移住してくるようになる。

④繁殖力の格差
社会規範の力によって、その集団の出生率を変化させることができる場合もある。生まれた子どもは代々自集団の規範を身につけるので、年月を経るうちに、出生率の高い集団の社会規範が、そうでない集団の社会規範を凌駕して広まっていく傾向がある。

⑤名声バイアスによる文化伝達
文化的学習能力を備えているヒトは、健康で豊かな生活を送っている成功集団のメンバーに選択的な注意を向けて、それに倣おうとする傾向がある。成功集団には、その集団を成功に導いた社会規範が存在する場合があるからで、その結果、より有力な集団の社会規範が、思想、信念、 風習 (儀式など)、動機などとともに、他の集団に伝播していく。

歳月を経るうちに、以上のような集団間プロセスが組み合わさって、さまざまな社会規範の統合や再結合が起こり、しだいに向社会的な規範ができあがっていく。

今から12000年ほど前に農耕や牧畜が始まると、集団間競争がいっそ激化し、ますます大規模で複雑な社会ができあがっていった。

非暴力的なものも含めた、さまざまなタイプの集団間競争が文化進化を方向づけ、人類社会を形成してきたということ。そして、遠い昔、人類進化の歴史が始まった当初から、ヒトはそのようにして形成された社会の中で生きてきたということだ。だとするならば、集団間の競争が、社会規範、慣行、世評、懲罰などのあり方を介して、ヒトの遺伝的進化をも方向づけてきたと考えてよいだろう。

実験で、他者を観察することによって、幼い子どもたちは自発的にその場のルールを察し、そのルールは誰もが従わねばならない規範なのだと思い込む。逸脱行為や逸脱者は子どもたちを怒らせ、正しい行動を教えなくてはという気持ちにさせるのだ。
推測されるルールに反した行動を見て、自発的に叱責したくなったのだ。この実験は、他の種にはないヒトの社会生活だけに見られる重要な特徴のいくつかを明らかにするものだ。 その特徴とは次の4つである。

①私たちは社会的ルールが支配する世界に生きている。
②こうしたルールの多くは恣意的だったり、一見恣意的だったりする。
③こうしたルールに従うかどうか、他者がいつも目を光らせており、ルールを破れば否定的な反応が返ってくる。
④私たちは、こうしたルールに従うかどうかを、他者に見張られていると思っている。

旧石器時代の人類の社会でも、実に様々な規範が出現し、その中で集団間競争を有利にする規範だけが選択的に広まり、制度となって社会を形成していったのだろう。

社会では、規範を犯した者には様々な制裁が待ち受けている。場合によっては集団リンチで殺されることもある。オオカミを家畜化してイヌにするときに、服従しようとせず訓練を拒んだ個体を殺処分したように、ヒトの共同体はそのメンバーを家畜化していったのである。

所属集団の規範(ローカルルール)を身につけられない者、自分を制御できない者、たびたび規範を犯す者は、容赦なく搾取の対象にされた上、最終的に村から追い出されてしまう。
人類進化の歴史を通してずっと、規範を犯す者には制裁が加えられ、規範を守る者には報酬が与えられてきたことで、人類の自己家畜化が進み、ヒトに規範心理が植えつけられたのである。

この心理はいくつかの要素から成り立っている。

①ローカルルールを効果的に身につけるために、私たちヒトは直感的に、社会はルールに則って動いているはずだと考えるようにできている。それがどんなルールなのか、まだ知らなくても、である。ルールに反したことをすればまずいことになるはず。だとすれば、他者の行動は社会のルールに則ったものであるはずだ、と考えるようになるのだ。また、ヒトは幼いうちから発達してくる認知力と動機によって、ルールに反する行為を目敏く見つけて、違反者を避けたり利用したりするようになるし、自分の評判を常に気にかけ、評判を落とすまいと心がけるようになる。

②ヒトは規範を学ぶときに、それを少なくともある程度、自分の価値として受け入れる。このように規範が内面化されていると、うまく世の中を渡っていけるし、目先の利益に釣られてルールを破ることもなくなる。規範が内面化されていれば、それが直感的な経験則としてすばやく働き、ルールを破れば短期および長期的にどんな利益があり、逆にどんな報いを受けるかといちいち損得勘定したりせず、すんなりとルールに従い、規範を遵守することができるようになる。

社会規範に支配された世界をうまく渡っていけるように、ヒトの感情やその表出行動にもいろいろと手が加えられ、自己家畜化が進行した。霊長類の恥や誇りに関連する感情が、社会規範に適合するようにだんだんと形を変えていったのである。

ヒトの場合には、社会規範を犯してしまったときや、仕事のできばえが標準以下だったとき、そして階層序列が低い場合にも、羞恥心を抱く。
恥の表明は、その社会の秩序を受け入れていることを再確認するものだ。

同様の文化遺伝子共進化の過程で、個々人を評価する基本的な心的機能や、危害の恐れ、公正さ、地位などを判断しようとする動機や初期設定のようなものがもたらされた可能性がある。

発達初期の赤ん坊でさえ、小規模社会の社会規範を維持するのに不可欠な他者評価の能力や動機をすでに備えており、相手を助けるべきか、傷つけるべきかという単純な状況に、その他者評価の論理を当てはめることができるようなのだ。
ヒトは、社会規範に支配されている世界、しかも第三者や世評の力で社会規範が強化されている世界を生き抜くために、遺伝的進化を遂げていったのだ。
向社会的なバイアスを通して規範を身につけ、それを内面化して遵守するとともに、規範に犯す他者に目を光らせ、自分の評判に気を配るようになっていった。その進化のプロセスが、私たちヒトを、どんな動物とも異なる独特の生きものにしたのである。

文化進化によって、多種多様な社会規範が生まれ、その結果、結婚、交換、分配、儀礼などに関する習慣や期待が集団ごとにますます異なるものになっていった。すると、自然選択が遺伝子に働きかけて、規範に支配された社会をうまく渡り、柔軟に学習していくのに有利な認知機能や動機をヒトに与えることによって、そのような社会環境に対応したのである。

規範が支配する社会に生まれ育つ個人の成功をある程度まで左右するのは、自集団の社会規範をきちんと身につける能力である。

社会規範というのは、目に見えないが、隠然たる力をもって社会に根を下ろしており、規範の多くはすでに各人の世界観の一部になっているので、別の考えをもつ人間がいること自体、なかなか想像できなかったりする。

どんな社会規範のもとに生きている人間かということは、目で見てわかるものではない。そこで、自然選択によって利用されたのが、社会規範はたいてい言語、方言、入れ墨のような識別可能な特徴とともに伝播するという事実だった。

私たちが「人種」を区別する心理メカニズムはもともと、人種ではなく、民族を区分するために進化したものだ。人種と民族はしばしば混同されている。
その民族の一員であるかどうかは、言語や方言のような、文化として受け継がれてきた特徴によって決まる。
一方、その人種に属するかどうかは、肌の色や毛髪の形状のような、遺伝的に受け継がれてきた、目に見える形質的特徴によって決まる。

人種的特徴よりも民族的特徴のほうが優先的に認識されるという事実だ。子ども大人を問わず、言葉やアクセントからすると「同じ民族」だが、肌の色からすると「異なる人種」だという場合、文化的共通性のほうが身体的差異にまさるのだ。つまり、子どもたちは、人種は同じで方言が異なる人よりも、人種は違っても方言が同じ人を友達に選ぶ。 服装が同じという程度の文化的共通性でも、人種的差異にまさることがある。

戦争の影響を受けた社会では、社会規範が強化され、共同体の結束が強まると、より多くの、より活発な共同体組織が生まれてくる。

何十万年にもわたって集団間競争が繰り広げられる中で、様々な社会規範が広まっていった。
団結して共同体を守ろうとする気運を高め、干魃、洪水、飢饉のような自然災害に対処するためのリスク共有ネットワークを作り、食物、水、その他の資源の分かち合いを促すような社会規範である。つまり、時が経つにつれてだんだんと、個人の生存や集団の存続は、集団を利する社会的な規範を遵守できるかどうかで決まるようになっていった。特に、戦争の脅威が迫っているとき、飢饉に襲われたとき、干ばつが続くときはそうだった。

このような世界では、集団間競争に対する心理的反応が促された可能性がある。集団の結束力を高めなければ生き残れないような脅威にさらされると、あるいはそれが常態化した環境に置かれると、個々人をしっかりと監視し、違反者に厳しい懲罰を加える習慣が集団間競争で有利になって広まるので、その結果、規範を破ろうとする誘惑は抑え込まれていく。また、そうした脅威のもとでは、違反者は村八分、鞭打ち、死刑など苛酷な制裁を受けるようになるので、その結果として、人々は無意識かつ反射的に社会規範を遵守するようになり、信念や価値観や世界観をも含め、集団やその社会規範にしがみついて生きるようになっていったのかもしれない。

7〜20歳の頃に、戦争を経験することで、自らが属する共同体の成員を優遇し、それ以外の集団の成員を冷遇する、いわゆる内集団びいきの傾向が現れる。

害の脅威や情勢不安にさらされると、人々は共同体の社会規範を忠実に守るようになる。儀式を重んじ、 超自然的なものを信仰するようにもなる。

長い歳月にわたって続いてきた集団間競争を駆動力とする文化進化によって、規範であふれた社会環境が生み出されていった。つまり、結婚、儀式、親族関係から、資源交換、金銭取引、共同体防衛に至るまで、ありとあらゆる分野が社会規範の影響を受け、名声や信望が重んじられる社会が誕生したのである。こうした社会環境が何万年、何十万年にもわたって強い選択圧として作用し続けた結果、ヒトの遺伝子に変化が生じ、ヒトの社会性が形成されていった。こうして生まれた高度な社会性と、他者から学ぶという文化的性質とがあいまって、高度な技術や適応的な知恵が蓄積されていった。

個々人が互いに正確かつ忠実に他者から学べるようになると、その社会集団には集団脳とでも呼ぶべきものができあがってくる。その集団脳が、さまざまな道具や技術、その他の非物質文化 (ノウハウなど)を生み出していくのである。
人類が高度なテクノロジーを発達させることができたのも、地球生態系で圧倒的な優位を獲得することができたのも、幾世代にもわたって受け継がれてきた集団脳のおかげであって、生まれつき個々人の脳に備わっている発明の才や創造力の働きではない。
私たちの集団脳は、個人間の情報共有によって生まれる、さまざまな相乗効果によってつくられていくのだ。
ヒトは、ごく幼い頃から、自分が属する共同体や広い社会的ネットワークの中から、能力やスキルに優れ、実績や名声もあるメンバーを選んで模倣しようとする傾向がある。したがって、従来よりも優れた技術やスキルや方法が現れると、必ずや集団全体に広まっていく。成果が上がらない人々や若年者がそれを模倣するからだ。新たな技術やスキルや方法は、必ずしも意図的な発明から生まれるとは限らない。うっかりミスが幸いすることもあれば、別々の人の発明が組み合わさって新たなものが生まれることもある。そして、こうしたヒトの文化伝達のメカニズムにはある一定の傾向が見られる。集団から集団へ、世代から世代へと伝達されていく過程で、あまり意味のなかった無数の改良や新結合はいつしか消えてなくなり、大きな成果につながったものだけが集積され、伝播していくのである。
このようなプロセスにおいて重要な役割を果たすのが、集団の規模、そして、個人間の社会的つながりなのだ。人間の数が増えればそれだけ、幸運なミスや、新たな組み合わせ、偶然のひらめき、改良の努力も増すわけだから、集団の規模が重要であることは言うまでもないだろう。
 
大前提として、集団の成員同士の社会的つながりが十分に保たれていて、工夫や改善の成果が集団全体にスムーズに伝わることがある。それは個々人の頭の良さ以上に重要だ。

文化進化の過程で、道具や技術や習慣の習得しやすさにも磨きがかかっていく可能性がある。世代を経るにつれて、継承される技術自体は変わらなくても、それを学ぶための方法がしだいに簡素化され、直感的で学びやすいものになっていくはずだ。つまり、規模が大きくて成員同士の結びつきの強い集団は、複雑な道具や高度な技術をいろいろと獲得していくだけでなく、同時に、それを習得しやすくするテクニックも獲得していくということだ。

人類の自己家畜化が進み、ヒトの社会性が高まるにつれて、集団脳の規模が拡大し、そのおかげで、より高度な技術や膨大な知識を獲得することができたのだろう。しかし忘れてならないのは、ヒトが定住人口をはるかに超えた大規模な集団を維持していくのには、やはり社会規範の存在が欠かせないということだ。集団間競争が繰り広げられるなか、大規模な集団内の調和維持に役立つ社会規範が広まっていったことだろう。また、親族の絆、命名の風習、姻戚関係、配偶者交換、および儀式などを通して社会集団を拡大し、同盟関係を強化する仕組みも広まっていったことだろう。このような規範や制度の支えがあればこそ、ヒトの集団脳は規模を拡大することができたのであり、そのおかげで、高度な道具や武器など、より複雑なノウハウを文化進化を通して生み出し、かつ維持していくことが可能になったのである。

自前で新たな技術を考え出す個体がいなくても、異なるモデルから学んだものを新たに組み合わせる個体がいれば、今までにない新しいものは生まれるのだ。このことはイノベーションを理解する上で非常に重要になってくる。

人口規模が大きく、相互連絡性の高い集団ほど、より高度な道具、技術、武器、ノウハウを生み出すことができる。それは集団脳のサイズが大きいからなのだ。

第一に、ある集団が突然、人口を減らしたり、社会的つながりを失ったりすると、生存や繁殖に有利な文化的情報を継承できなくなり、その結果、高度なスキルや複雑な技術も失われてしまう可能性があるということ。
第二に、人口の規模と社会の相互連絡性によって、集団脳のサイズの上限が決まってしまうということだ。

集団の規模が大きければ、文化伝達に伴う情報の一部喪失という問題を克服することができる。なぜなら、何かを学ぼうとする者が増えればそれだけ、だれかが師匠の知識や技能と同等もしくはそれを越えるレベルにまで到達する確率が高まるからだ。集団内の相互連絡性が保たれていることも重要だ。保たれていれば、より多くの者が最高の技能や実績をもつ師匠に接する機会が増えるので、師匠を凌駕する確率も高まるし、それぞれ別の師匠から学んだ要素を組み合わせて新機軸を打ち出すことも可能になるからだ。

集団間競争よって高度な道具や武器が生み出されていく際には、より大きな集団脳を維持できる社会規範や制度が同時に生み出されていく必要がある。テクノロジーと社会性と共進化する必要があるのだ。

3〜4歳児の少人数グループと、同じ個体数のサルが、パズルボックスの課題に挑戦した。
サルたちがパズルボックスの課題になじみがあり、多くの認知課題ではサルがヒトに勝利したが、それとは全く違って、ヒトの勝利に終わった。
うまく箱を開けられた子どもたちに頻繁に見られたのは次のような行動だった。
①他の子どもの操作をまねる(模倣)
②他の子どもに教わる(口頭教示)
③他の子どもにご褒美を分ける(分配)
ヒトグループに見られる模倣、教示、社会性が成功の鍵を握っていたのだ。一方、サルグループが苦戦したのは、まさにこうした社会的、文化的能力に欠けていたからだった。
明らかに、累積的な学習はヒトの領分なのだ。

個体ごとに見た場合、アフリカからの移住者(つまり私たちの先祖)は、同時期に生きていたネアンデルタール人よりも、脳容積はやや劣っていた。しかし、彼らは、より高度な累積的文化進化を可能にする、もっと大きなサイズの集団脳をもっていた。
このような大きな集団脳が生まれるのは、社会集団の規模が大きく、成員同士の結びつきが強い場合、そして、個々人の成人後の平均寿命が長い場合である。

好適な生態学的条件のもとで生まれた社会規範や慣習が、より大きな集団脳を育み、その集団脳の知恵のおかげで寿命が延びたことで、ますますその集団脳のパワーが増していったのである。

だとすると、生態学的な制約により、小さな集団脳しかもてなかったネアンデルタール人は、それを補うために、個々人の脳容積を大きくする必要があったのかもしれない。しかし、ネアンデルタール人が個々の脳を大きくして対抗しても、アフリカからの移住者の社会的な結びつきや長寿がもたらす、より大きなサイズの集団脳のパワーにはかなわなかったのだろう。

文化進化は直線的ではない。研究者たちは、火の痕跡や、槍、長柄武器、釣り針、宝石、交易品、骨角器など、初期の人類のものと思われる物的証拠を見つけ出すと、すぐにこう考えてしまう。ひとたび発明されたものが消失するわけがない。少なくとも、より良いものが発明されるまでは存続するはずだ、と。ときおり立ち止まりつつも、たゆみなく続けられていく技術革新のようなものを思い描いているようだ。
しかし、そうではない。テクノロジーにせよ、非物質的なノウハウにせよ、それを維持し続けられるかどうかは、生態学的な条件、環境の変動、病気の蔓延、社会的な慣行などの絡み合いによって決まってくるのだ。集団として、いったん失ってしまったノウハウを二度と取り戻せないこともある。
文化的な種であるヒトにとっては、複雑なテクノロジーを生み出す上で、生得的な頭の良さよりも社会性のほうがはるかに重要になってくる。したがって、テクノロジーやその他の文化の繁栄について考えるとき、その繁栄の理由を理解しようとするのであれば、社会制度、結婚の風習、諸々の儀式など、社会生活面についても考慮しなくてはならない。
ところが、文化の繁栄を遺伝的要因で説明しようとするアプローチは、複雑な累積的文化進化の産物(言語)を遺伝的差異に結びつけて考えようとする。しかし、複雑な言語の出現は、文化の繁栄の究極の説明などではなく、累積的文化進化の産物の一つにすぎないのであって、道具類と同様に、さまざまな力の影響を受けている。

子どもがいとも容易に言語を習得してしまうわけ、そして、特に意識しなくても複雑に入り組
んだ構造の言語が生まれてくるわけを、いったいどのように説明すればいいのだろう?
優れた技術、儀式、制度といった文化の他の諸側面と同様に、音声言語を含めた諸々のコミュニケーションツールは、幾世代にもわたる文化伝達の過程を経て進化してきたものであり、その過程で、コミュニケーションの質と効率が高まるように、また、自然環境や社会規範などそれぞれの土地の状況に合うように、変化を遂げてきた。つまり言語は、コミュニケーションのための文化的な適応なのだ。

このようなコミュニケーションシステムは、私たちの脳に合うように、類人猿の認知機能を利用して(文化的に)変化する必要があったが、同時にそれは、遺伝子にかかる新たな選択圧となって、ヒトのコミュニケーション能力を高めていった。この強大な進化圧を受けたことによって、ヒトの解剖学的構造や心理が形成されていったのである。例えば、喉頭の位置が下がって声域が広がり、舌が自由に動くようになって滑舌が良くなり、さらに、虹彩の周囲が白くなって視線の方向がよくわかるようになった。また、生まれつき音声模倣の能力をもつようになり、指差しや目配せなどを交えて意思の疎通を図ろうとするようになった。

テクノロジーや制度の場合と同様に、長い歳月を経るうちに、文化進化によって多くの有用なコミュニケーションの要素が人類の祖先たちの間で蓄積されていき、統合されたり磨かれたりしながら、しだいに複雑なものになっていったのである。

コミュニケーションシステムは、物理的環境と社会環境の両方を含めた、ローカルな環境課題に適応(文化的適応) している。文化進化の状況がコミュニケーションレパートリーのサイズや複雑さに影響しうる。テクノロジーの場合と同じく、その言語共同体の規模と緊密さが、語彙数、音素数、および文法ツールに影響を及ぼすのである。

生まれる前から胎児は、母親が話す言語の音やリズムの要素を覚え始めている。
そして、生まれるとすぐに、周囲の人たちの舌や口の動きをじっと見つめながら音声模倣をし、そのつど修正しながら適応学習を重ねていく。やがて、乳児の脳内に、母語にとって意味のある音だけを拾い、それ以外の音は無視するような、その言語専用の音素フィルターが形成される。そして、満一歳になる頃には、指差しは、何かに注意を向けよという合図なのだと理解するようになり、言葉が出るずっと前から、指差しと情動反応とでコミュニケーションを交わし始める。
乳幼児は、こうしたコミュニケーションシステムの諸要素を無意識のうちにどんどん身につけていくが、それには文化的学習につきもののバイアスがかかっており、道具や習慣や社会規範を学ぶときと同じく、有能さ、信頼度、および民族(方言)を手がかりにモデルを選んでいる。
乳幼児は、そのモデルが言葉や身振り手振りを使って、何かをするのを(友人を助ける、情報を求める、何かを手に入れるなどを)注意して観察する。やがて、乳幼児は、そのモデルが何をしようとしているのかを推測し、モデルの目的、願望、および行動を模倣するようになる。その意味は、日々の社会生活の豊富な文脈から推測することが可能だ。

子どもたちが事もなげに言葉を覚えてしまうのは、そもそも現在使われている言語が、文化進化を経て習得しやすくなった言語だからなのである。また、統語規則のような、どの言語にも見られる特徴のいくつかは、特に語彙が増大していくときに、習得しやすさを損なうまいとする文化進化の力が働いた結果に違いない。

人類の進化史を通じてずっと二つの重要な共進化が進行していた。
まず第一に、複雑度を増すコミュニケーションレパートリーと、複雑度を増す道具、習慣、制度との共進化である。両者は互いに作用し合って相乗効果をもたらす。なぜなら、二つ以上の文化領域が選択圧となって、価値ある文化的情報を獲得、蓄積、整理、再伝達する心理的能力を高める遺伝子に影響するからである。この相互作用によって、他者から学ぶ文化的学習能力に磨きがかけられていったはずだ。つまり、相手の目的や意図を推し量り、根底にある規則や規範を見抜き、複雑な階層構造を学ぶ能力が高められていったのだと思われる。
第二に、前述のとおり、コミュニケーションレパートリーが文化的に蓄積されていくにつれて、コミュニケーションに関わる諸々の遺伝子に選択圧がかかるようになり、その結果、ヒトの心身にさまざまな変化が生じた。

コンピューターシミュレーションによって、ヒトの認知能力の特性を探る研究が行なわれている。
複雑な非言語的作業を習得する能力が、「遺伝的」に進化していく人工ニューラルネットワークに、同時に文法習得の課題を与える。

①非言語的な系列動作を習得する能力の遺伝的進化が、文法習得能力を高めた。つまり、道具と言語との間には相乗作用が見られる。
②しかし、非言語的な系列動作(道具作り)の習得能力を高めるだけでは、文法習得能力の遺伝的進化は妨げられた。つまり、文法習得に特化した遺伝子が優位になることはない。
③にもかかわらず、人工ニューラルネットワークの文法習得能力は向上した。なぜなら、既存の人工ニューラルネットワークが容易に学べるように、文法自体が文化進化を遂げたからだ。つまり、文化進化によって習得しやすい文法ができあがったのである。

文化がヒトの遺伝的進化の主要な駆動力であることに変わりはなく、文化進化によって生まれた、集団ごとにそれぞれ異なる言語の特徴が、なおも遺伝子頻度の変化をもたらしている可能性がある。ヒトの子どもはみな、どこで生まれ育ってもその土地の言語を習得できるが、もしかすると、自然選択がその土地の言語の特徴に応じて、遺伝的性質に手を加えているのかもしれない。

人類進化の途上での言語の出現こそが、ヒトは他の動物と一線を画すことになったのだとされてきた。言語の出現によって文化伝達が可能になった。

人類にとって言語が重要なもであることは明らかだが、言語を重視しすぎるこうした一般的な見方には大きな問題点が三つある。

第一に、この見方は、言語がなくても、かなりの文化伝達や文化進化が可能だということを認識していない。道具製作、火起こし、危険な動物、食用植物、調理法、食物選択などに関する文化的情報はすべて、言語を使わずとも、かなりの程度まで獲得できる。食物分配のような社会規範でさえ、言語なしでも伝達が可能だ。文化遺伝子共進化が始まってまもなく、本格的言語の出現にはまだほど遠いころに、指差し、顔の表情、即席の身振り手振りなどを文化伝達のツールとして利用するようになったのではないだろうか。これらは現在でも、共通の言語をもたない者同士のコミュニケーションツールとして使われている。まがりなりにも言語と呼べるものが出現したのはおそらく、文化進化がかなり進み、単純なコミュニケーションレパートリーが出そろった後だったのではないかと思われる。

第二に、言語それ自体が文化進化の産物であって、言語が文化をもたらすわけではない。言語によらない文化進化のずっと後に、言語から文字や読み書き能力が立ち上げられ、文化進化の新たな道を築いた。

第三に、言語は、その根本に、協力行動にとっての深刻なジレンマを抱えている。嘘、欺き、誇張などである。少なくとも短期的には、言葉で簡単に相手を騙すことができるので、人を利用したり、操ったりする格好の手段になりうるのだ。そして、コミュニケーションシステムが複雑になればなるほど、嘘をつきながら罰を免れるのが容易になってしまう。

この上の問題に対処できなければ、言語の進化は、遺伝的にも文化的にも限られたものになる。

言語だけではヒトの協力行動を促す決め手にはなりえない。しかし、「嘘をついてはいけない」「人を騙してはいけない」という社会規範が文化として芽ばえ、社会に根づいた後であれば話は別だ。 規範違反者の悪評を流したり、社会規範を迅速かつ正確に定着させたりといった言語の力によって、協力行動や交換取引がどんどん拡大していく可能性がある。

社会規範に支配され、世評が大きな影響力をもつ社会に生まれたヒトは、幼い頃からもう、秩序を乱さず規則に従い、ローカルな社会で重視される分野で秀でようとする。それがゴルフのこともあれば、経理、読書、そろばんのこともある。あるいは、吹き矢での狩猟だったり、先祖の霊を呼ぶ儀式だったりする。基本的に、社会規範が生み出した教育体制のもとで、すべての子どもが教育を受ける。
子どもたちは、ローカルな規範を内面化し、その規範に従って心身を鍛え、その社会で重視される身体技能や知的能力を身につける。

ヒトには他の動物にはない特徴がある。社会的誘因(評判など)、知的ツール(色名、書物、そろばん、地図、数字など)、および個人の動因を介して、文化的学習や文化進化が脳の改変を促すのである。こうした認識に立つ下位分野、文化神経科学によって、文化的に伝達される日々の仕事や、習慣、規範、目標が、ヒトの脳にどのような影響を及ぼすかが明らかにされ始めている。このような文化的な生態環境が、それぞれ異なる認知能力、知覚バイアス、注意配分、そして動機をもたらすことになるのだ。

事物や人物を知覚するときに、背景との関係まで正確に捉えられるかどうかは、洋の東西によって違いがある。西洋人の場合は、背景と切り離してその事物や人物だけに注目する傾向がある。背後の状況や文脈を無視して、対象の特性だけを抽出する。
東洋人は、事物や人物をその背景と結びつけて捉え、関係やその影響に注意を払う。
西洋人は、線分の絶対的長さを判断するのが得意で、東洋人は、線分の相対的長さを判断するのが得意である。

何十年にもわたる研究の結果、 プラシーボにも歴然たる効果があることが明らかになっている。本人の信念、願望や、それまでの体験にもよるが、偽薬を投与されたり、偽手術などの「にせ」治療行為を受けたりすると、体内の生物学的経路が活性化されるのである。
しかし、プラシーボの作用や効果は通常、患者がその薬や治療法をどれだけ信じているかによって全く違ってくる。この薬は効くと信じる気持ちが強いほど、実際に大きな効果が発揮されるのだ。それだけではない。本物の薬の薬理作用もどうやら、効くと信じる気持ちの影響を受けるらしい。

私たちの信念や期待は、自分の直接体験か、他者から得た情報(文化的学習)のいずれかによって形成されるからである。すでに信念が形成された状態で病院を訪れることもあれば、訪れた病院で、医者によって信念が形成されることもある。
さらに、文化によってフィードバックループがつくられることもある。まず最初に、周囲からの情報によって、あの薬はとよく効くという期待感が生まれたとしよう。治療を受け、当初の期待感によるプラシーボ効果も加わって、快方に向かう。その次のときは、良くなったという直接体験 (前回の治療効果による条件付け)が、他者からの情報 (文化的学習)に上乗せされる。このようなフィードバック効果が好循環をもたらすこともあれば、悪循環を生むこともあり、それによって治療効果が多少とも左右される。

文化的学習は非常に大きな力を持っている。学習しだいで、主観的な痛みの強さを和らげることもできるし、痛みや痛みの恐怖に対する生理反応を抑えることもできる。さらに、痛みを望ましいものにしてしまうことだってできるのだ。例えば、走るのは苦痛だから避けたいと思っている人が多いが、ランナーは走るのが好きである。同様に、重量挙げをやっている人は、しっかり練習した後の筋肉痛が大好きだ。痛みが心地いいのである。目の前で転んだわが子が親の反応をうかがっているのを見たことがあると思う。親が笑顔で平然としていれば、子どもはむっくり起き上がって、またすたすた歩き出す。ところが、親が痛そうに顔をしかめると、たいていわっと泣きだし、ハグを求めてすり寄ってくる。

文化進化により構築された社会的・技術的世界に生まれ育つことによって、ヒトの生体諸機能は大きく変化する。遺伝子頻度を変化させるほどの時間が経過していない場合でも、文化には、ヒトの生物学的特性を根底から変えてしまう力があるのだ。知らず知らずのうちに身につけた動機、選好、価値観によって、脳そのものが変化し、報酬系回路を興奮させる、好きなものが変わるとともに、即座に直感的に反応するようになる。

文化的学習によって、この世界の仕組みに関するメンタルモデルや信念が形成され、それによって何に注意を向け、何を期待するかが変わってくる。
さまざまなプラシーボが、実際に効果を発揮し、生体諸機能に大きな影響を及ぼす理由もこれで説明できる。
さらに、累積的文化進化により諸々の技術、習慣、社会規範のパッケージが生まれたことによって、ヒトの心身機能を補うツールを授かり、また、世評の重要性が増してくると、それに伴ってヒトの脳にも変化が生じ、まったく新たな認知能力が生まれるとともに、既存の能力に磨きがかかっていく。

ヒトが文化に大きく依存している種である以上、ヒトの集団間には、制度、技術、および習慣に関連する様々な面において相当な心理的差異が生じる可能性が高いが、そのような心理的差異は、結局のところ、(非遺伝的な) 生物学的差異なのである。 生物学的特性はすべて遺伝的差異で説明されると考え、文化的説明をこれらと切り離してしまうと理屈に合わなくなる。

人類への契機

木から地上に降りる
→両手が自由になる
→地上にあるものを手で使う
→手で加工して道具を作る

木から地上に降りる
→捕食される危険性がある
→群れを作る
→群れの中で協力する
→他個体からの学習機会が得られる

群れの拡大に伴って、道具、スキル、ノウハウの規模や複雑さが増大した。集団の規模が大きいほど、より多くのイノベーションやアイデアを生み出して、広め、保持することができた。

道具を作ったり、使いやすいように手も進化するし、群れでの生活で脳も進化して大きくなっていった。

チンパンジーはつがいを形成しない乱交型であるが、群れの規模が大きくなると、一部のオスとメスは、つがいを形成するようになった。つがいの関係は長期間維持され、つがいのメスは、つがいのオスの子を優先的に産んでいた。
群れにはメスよりオスが多い。メスはの半数がつがいを形成した。オスの1/4がつがいを形成した。優位なオスは、つがいを形成しなかった。
群れの中で優位な地位につくことが、オスの繁殖成功度を高める重要な要因であることに変わりはない。しかし、この観察結果は、群れが大きくなると、つがい形成の萌芽が現れる可能性があることを示している。

進化の過程のどこかで、ヒトのメスは、排卵隠蔽という戦略をとるようになった。ヒトの場合、メスはいつでも性的に受け入れ可能で、オスは自分のパートナーがいつ妊娠可能なのかよくわからない。この排卵が隠蔽されていることも手伝って、オスは、より頻繁にパートナーに付き添い、生殖とは直接関係のない性交を何度も行なうはめになる。そして、この「付き添う」時間が長くなることで、つがい形成となる。

チンパンジー社会では、オスは生まれ育った集団で一生を過ごすのに対し、メスはたいてい、大人になるとほかの群れに移っていく。

メスが他の群れから移ってくる種の場合、オスは、メスにとって有益なもの、その縄張り内についての知識を持っている。となると、メスは当然、知識を持つ優れたオスを選んで、長いこと(学習のために)行動を共にしようとする。メスは、食物の提供を受け、保護してもらえるだけでなく、つがい形成によってローカルな知識を獲得することができる。

霊長類の大きな群れで、つがい形成が進むと、血縁個体とりわけ兄弟姉妹や、片親の異なる兄弟姉妹、父親、さらには父親の兄弟の識別度が高まる。霊長類は主に、いつも自分の母親のそばにいる他個体に注目することで血縁個体を見分けている。血縁個体の認識によって、血縁個体のネットマークが形成される。

捕食者の脅威にさらされ大集団で生活することを余儀なくされ、少なくともその一部がつがい形成という戦略を採るようになった、大型の地上性類人猿が、ルビコン川にかけた狭い進化の橋を渡り始めた。

規範に素直に従い、規範を犯すことを恥と感じ、社会規範の習得や内面化を得意とするようなヒトの心理が形成されていった。これこそが、自己家畜化のプロセスである。

イノベーションには天才も組織もいらない。必要なのは、多数の頭脳が自由に情報をやりとりできる大きなネットワークのみ。それを構築できるかどうかは、人々の心理にかかっている。

ヒトの心理や行動までもが文化によって形成されてきたことを考える際のポイントとなるのが、「長い年月の間に文化として代々受け継がれてきた大量の情報は、一個人が一生かけても考え出すことができないほど優れた知恵に満ちている」という事実である。
ヒトは賢そうに見えるし、たしかに賢い。けれどもそれは、生まれつき個々人の脳に備わっている発明の才や創造力によるのではなく、「祖先代々受け継がれてきた知識や技術や習慣など、膨大な文化遺産の宝庫から、知的アプリケーションをダウンロードして利用しているから」なのだ。例えば、 十進法、分数、三次元座標、時間区分、左右の概念、基本色名、表記体系、滑車、車輪、てこの原理等々。こうした精巧な知的ツールが脳内にインストールされているおかげで、私たちは生得的能力をはるかに超える能力を発揮することができるのだ。

価値ある文化的情報は、こうした知的ツールだけにとどまらない。長い年月の間に、動植物に関する知識なども含め、その地域での生存や繁殖に有利なありとあらゆる情報が蓄積されて、優れた「集団脳」と呼ぶべきものができあがっていく。そうなると、試行錯誤を繰り返しながら自分で工夫するよりも、すでに適応的なスキルや習慣を身につけている他者を模倣する「社会的学習」のほうが圧倒的に有利な状況が生み出される。そのような状況下で、ヒトの模倣行動にますます磨きがかけられるとともに、手本にすべき人物、つまり成功実績や名声のある人物を敬おうとするプレスティージ心理や、それに伴う社会的地位といったものが生まれ、さらに一連の社会規範ができあがっていく。協力行動や、親族関係、集団の調和維持などに関する社会規範を犯した者には悪評などの制裁が加えられ、規範を守る者には報酬が与えられるうちに、ヒトに規範心理が植えつけられていった。そして、集団を利する社会規範をもつ集団のほうが、他集団との競争で有利になるために、ますますこうした傾向に拍車がかかり、人類の「自己家畜化」が進んだのだ。

私たちはつい、自分の頭で考えずに、権威者の意見になびいたり、多数派に同調してしまったりする。世間の目や評判を気にしてしまう。しきたりや人間関係のしがらみから自由になりたいと思いながら、それに縛られてしまうこともある。けれども、このような性質は、長い進化の歴史の中で培われてきた、ヒトという動物の特性なのだ。











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