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ビジュアル・シンカーの脳

20240725

私たちは、この世に生まれてきたときにはまだ言葉をしゃべらない。幼稚園に通う頃には、複雑な文でおしゃべりができ、基本的な文法を理解する。言語はコミュニケーションに不可欠で、人間にとって水や空気みたいなものだ。

言語はコミュニケーションだけでなく、思考の土台でもあると考えられ、たしかに何世紀ものあいだそう教えられてきた。

デカルトは、「我思う、故に我あり」と唱えて、とくに、人間と獣の違いは言語の使用だと主張した。言葉を使うから人間だと言うのだ。
時代が数百年進んでも、心の働きは、おもに言葉に基づいて説明される。

小さいころ、まわりの世界を言葉で理解できなかった。 画像で理解したのだ。たしかに今では言葉を話すが、それでも考えるときにはおもに「絵」を使う。私の思考は言葉がなくても豊かで生き生きしている。視覚的なイメージが次から次へと思い浮かぶ。 グーグルの検索画像をスクロールしたり、インスタグラムやTikTokのショートムービーを見たりしているように、画像で考える。これが視覚思考だ。

視覚思考は、見ること自体に関係するのではない。脳が視覚の回路を使って情報を処理する思考のプロセスである。つまり、考える方法が言葉で考える通常の言語思考と異なるのだ。

視覚思考者には、絵で考える「物体視覚思考者」と、数学の好きな「空間視覚思考者」という2つのグループがあって、後者はこれまで見過ごされてきたが、視覚思考者の重要な一集団で、パターンで考えるというのだ。

テスト偏重教育の中で、しばしば成績も素行も悪いと考えられ、特別支援教育に追いやられてしまうことがある。その多くが実は視覚思考者で、彼らがふるい落とされてしまうのは、現在の学校教育が言語思考者、つまりテストの点がよくて、筋道立てて考える生徒に有利だからだ。
視覚思考者が排除されている。異なる考え方をする人びとの才能や技術を認めて伸ばし、それを活かして社会の役に立てなければ、豊かな社会を築くことなどできない。 

言葉による思考は、つながりがあって一つにまとまっている。おもに言語思考をする人は物事を順序立てて理解する。だから学校では成績がいい。学校での勉強はたいてい連続していて体系化され言語思考タイプは一般的な概念を理解するのが得意で、時間の感覚に優れているが、方向感覚は必ずしもいいとは言えない。問題に対して講じる対策を明確にして、解決や決定にたどり着く。声に出さずに自分の心に語りかけ、自分の世界を構築する。メールをさっと書き、そつなくプレゼンをこなす。小さいときからよくしゃべる。

一方、私のような視覚思考タイプは頭の中でイメージを見るから、高速で連想する。一般に地図や絵画、迷路が好きで、道案内がまったく不要なこともよくある。一度しか行ったことのない場所を簡単に見つける人もいる。頭の中のGPSが目印を記録しているのだ。
視覚思考タイプは子どものころに話しはじめるのが遅く、学校や従来の教え方では苦労する傾向がある。代数が苦手なのは、あまりにも抽象的で、視覚化できる具体的なものがないからだ。そのかわり、建設や組み立てのような実際の作業に直接関係する計算が得意だ。私は、機械の装置が動く仕組みを簡単に理解し、新しい装置を考え出すのが楽しい。問題を解決するのが好きで、しばしば人づきあいが苦手に見えるらしい。

視覚思考と言語思考に関連する脳の活動を調べた。視覚思考者はイメージを思い浮かべ、言語思考者は独り言を頼りにしていることが、明らかになった。
言語思考者は、独り言によって、やる気を起こしたり、自分を見つめたり、気分転換したり、注意を向けたり、行動を変えたりして、意識を高める。

子どもはみな幼いころには視覚思考の傾向があるようだ。子どもが情報を処理する方法を研究し、人から聞いた言葉と、自分の目で見た光景のどちらを頼りに記憶するのか調べた。すると、年長の子どもでは、視覚記憶は「言葉による記憶が積み重なっていくうちに覆い隠されてしまう」ことがわかった。

子どもは、5歳になるまでは視覚的短期記憶に大きく依存していることがわかった。6歳から10歳までの間に、だんだん言語で処理するようになり、10歳以降はおとなと同様に言語的短期記憶に依存する。脳の言語システムと視覚システムが発達するにつれ、言語思考に向かうのだ。

「視覚空間型思考判定テスト」

「はい」が十以上なら視覚(空間型) 思考タイプの可能性がかなり高い。
視覚 (空間型) 思考タイプか言語思考タイプかは、どちらか一方に当てはまるのでなく、だれもが言語優位から視覚優位までの連続するスペクトラムのどこかに当てはまる。

視覚思考者は2種類いるのだ。
物体視覚思考者は、写真のように正確なイメージでまわりの世界を見る。グラフィックデザイナーや画家、目端のきく商売人、建築家、発明家、機械工学士、設計士などがそうだ。
一方、空間視覚思考者は、パターンと抽象的な概念でまわりの世界を見ている。音楽や数学が得意で、統計学者、科学者、電気技師、物理学者などが当てはまる。コンピュータープログラマーに空間視覚思考者が多いのは、コードにパターンが見えるからだ。いくつかの物や数字の関係からパターンや法則を引き出す能力がある。
2つの思考の区別
物体視覚思考者はコンピューターを組み立て、空間視覚思考者はプログラムを作成する。

エンジニアは、抽象的に考える空間視覚思考者で、あるシステムを開発するときにはなくてはならない。しかし、エンジニアは理屈で考えすぎる傾向があり、革新的な解決策を即座に決定できない。エンジニアは、自分たちの気楽な縄張りの外に出て仕事をするのをいやがる。
特定の専門分野ではすばらしいが、アイデアを物に変えるのはそれほど得意でない。

9歳になる前の子どもは、動物と人間を同等に扱う傾向がある。犬と人間の命を同じくらい大切だと考える子は多く、これに対し、大人のほぼ全員が、例え犬100匹より人間1人を救う選択をした。人命重視は、発達の後期に現れ、社会的に獲得される可能性がある。

動物を全くの「別物」と認識する傾向は、個人でも社会でも言語思考が優勢になるにつれて大きくなったのではないだろうか。言葉を話したり書いたりして言語による意識が育まれるとともに、動物に対する敬意が薄れ、理解が変わったとも考えられる。

古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、人間が動物より高い地位にあるのは論理的に思考する能力があるからだと考えた。人間は知覚し、合理的に思考することができ、言語で意思を伝えるのに対して、動物は感覚と衝動に駆られると言うのだ。

時代が流れて16世紀フランスの哲学者ミシェル・ド・モンテーニュは、「人間は動物より優れているわけではない」という随筆で動物の感覚を擁護した。人間は動物より優れていると考えるのは人間の驕りで、人間は「動物の胸中」をどうして知りうるのだろうかと問い、「憶測は人間が生まれつきもっている特有の病だ」と言う。この点を強調して、「猫と遊んでいるとき、私は猫をからかっているのでなく、猫にからかわれているのかもしれないではないか」と言う。

それから半世紀後の1637年、フランスの哲学者ルネ・デカルトは随筆「動物機械論」でモンテーニュに反論し、人間は肉体と魂でできているが、動物には魂がないから機械と変わらないと唱えた。動物を時計になぞらえ 「歯車と重りでできているにすぎない」と言う。「野獣が本物の言語を使用する段階、つまり、自然の衝動ではなく純粋な思考に属するものを言葉や合図で示す段階に達したのは、いまだかつて観察されていない」

19世紀にチャールズ・ダーウィンは「ある種の動物の習性は、調べれば調べるほど、本能ではなく理性に頼っていることがわかり、これは重要な事実だ」と言う。ダーウィンは人間の進化について述べた『人間の由来』で生物を分類して階級を定める考え方を痛烈に批判し、 「人間と高等動物の脳の相違はそれなりに大きいが、程度の相違で種類の相違でないことは確かだ」と唱えた。

人類の祖先はナイフ形石器の作り方をどうやって次の世代に伝えたのだろう。
石器の作り方をまったく知らない被験者を2つのグループに分けて本職の石切工を加え、最初のグループでは、石切工は道具の作り方を実演して、手順を言葉で説明する。もう一つのグループでは、石切工は実演して見せるだけで、言葉で説明しない。被験者は石切工を観察しなければならない。石切工は、石の押さえ方を指で差したり、示したりするなどして言葉を使わずに合図をした。
その結果、言葉を使わないグループのほうが石器の作り方をよく覚えた。言葉ではなく感覚に基づく学習は、太古の人類の業績で重要な役割を果たしたと考えられる。

人間も動物も生まれつきもっている基本的な感情システムを、第一次感情システムという。

7つの第一次感情システム
・怒り
・恐怖 (不安)
・パニック (悲しみ)
・探求
・欲望 (性衝動)
・保護(養育)
・遊び(つきあう喜び)

・怒りは生存にとってなくてはならない。これがあるから、動物は襲ってくる肉食動物と戦い、追い払う。
・恐怖を感じるから襲われるのを避ける。
・パニックは恐怖と異なり、分離不安の結果として生じる。分離不安とは、人間でも動物でも、幼い子が母親と離ればなれになったときに強い不安をいだくような状態をいう。
・探求は「探したり調べたりして、まわりの世界を理解しようという基本的な衝動」だ。哺乳類は探求システムを司る脳の部位を刺激されると、喜びを感じることが研究で明らかになっている。実験した動物は、脳のその部位を刺激するレバーを押しつづけた。
・欲望、つまり性衝動は人間でも動物でも思春期になると大きく増加する。
・人間と定温動物は、幼いわが子を育てる。これは母性本能による保護(養育)だ。母親は赤ちゃんを守るだけでなく、育て、世話をしなければならない。
・若い哺乳類や子どもはみな、遊びの衝動に駆られる。遊びはつきあい方を学ぶ手立てになり、子どもでは知的発達を促す。子どもは遊んでゲームを覚える。遊びの欲求は生まれつきだ。

「何らかの意識」をもつ動物は人間と大型類人猿に限らず、他の哺乳類、鳥類、頭足類も含めてもっと増えそうだ。
動物がもっているそれぞれの知覚と情動を「豊かさ」 という言葉を使って順位で示した。どの知覚が優れているのかを示す「知覚の豊かさ」の順位は動物によって異なるだろう。犬が鏡に映った自分の姿に関心を示さないのは、他者との交流で一番頼りにする知覚が嗅覚と聴覚で、視覚は大差をつけられた3位になるからだ。知覚の豊かさから見ると、カラス科の鳥は視覚の豊かな世界で暮らし、タコは触覚の豊かな世界で暮らしている。ゾウのように、感情がより豊かな生物もいて、それは情動の能力で判断される。

動物は感覚に基づく世界で暮らし、視覚や嗅覚、聴覚、触覚で考える一方、私たち人間は言葉を重視する世界で暮らす。言葉は感覚をあざむき、感覚情報を素直に受け取る妨げにもなる。言葉を話す前、思考がはじまる前、理屈をこねる前の幼い子どもと動物は認知機能の点で似ている。
子どもはまだ一歳半でも苦しんでいる人を慰めようとする。と言う。この行動は齧歯類(ネズミ、リスなど)、ゾウ、チンパンジーなどさまざまな動物でも見られる。共感の起源は母親の育児行動である。

私みたいな視覚思考者は、言葉をコミュニケーションの主要な手立てとしないという点で動物に似ている。完璧な言語思考者にとって、言葉を使わない視覚思考は想像するのも至難の業だろう。みなさんは言葉で伝えてもらわなくても、相手の気持ちに確信をもてるだろうか。

動物と人間の認知プロセスは、言語活動を無視すれば、基本的によく似ている。感覚から得られるイメージは、生物が新しい環境の情報を体験する手立てであろう。視覚思考はほぼ際限なく複雑で、話し言葉より明確で、2次元的、3次元的で、比較にならないほど詳細だ。

動物には感情がある。チンパンジーやイルカのように自分を認識している動物もいる。豊かな感情をもつ動物もいる。群れのリーダーの死を悼むゾウのように。動物は、私たちに気持ちを伝える言葉をもっていないかもしれないが、意識をもっていると私は信じる。ある意味、動物は視覚思考者と言えるだろう。

考える方法自体が人それぞれに違い、世の中には「絵」で考える視覚思考タイプと言葉で考える言語思考タイプがいて、その違いは脳の作りや働き方の相違による。さらに、視覚思考には、物体視覚思考と空間視覚思考の2種類がある。物体視覚思考が具体的なものを思い浮かべて考える方法であるのに対し、空間視覚思考はパターンや抽象的な概念で考える方法で、空間視覚思考タイプは数学が得意でチェスや囲碁が好きである。












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