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雪のなまえ

20240601

何事によらず、深く考えるより先に直感と感情で、つまり、思いつきと気分で、ものを言ってしまう性格だ。

「自分が悪くもないのに逃げてしまったら、この先もずっと逃げ癖がついちゃうでしょ」
「辛いことからは逃げていいでしょ。大事な娘が周りの理不尽な圧力に押し潰されるところなんか見たくない」

「辞表を出した。さあ、これで自由だ。いよいよ夢を叶えられるぞ」

自分は一体この先の人生をどう生きていくべきなんだろうか。

普段から理解しあい、愛しあっている夫婦というものは難しい。なんでも話しているようでいて、むしろ逆だったりする。黙っていてもきっとわかってくれている、と思いこむせいばかりではない。相手がどういう場面でどんな反応を示すか前もって想像がつくだけに、かえって話さないことや、あらかじめ諦めることも増えてしまうのだ。

いつも、心の底から安心できる。自分はここにいていいのだと、それどころか自分の存在をこんなにも喜んでくれる人がこの世にいるのだと思えて、嬉しさと晴れがましさに満たされ、とても落ち着く。

悩みとか、ないでしょ。自分で自分のこと嫌いになっちゃうとか、全然ないでしょ。

この場所は、全部受け容れてくれる。傷のあるものも、どこか欠けているものも、他と違っているものも、全部。完全でないことを、少しも責めない。

「何しろこういう性格だからさ。いっぺん思い立ったら、どうしても後戻りができないんだよ。赤い布をひらひらさせられた牡牛みたいにまっすぐ突進して、向こう側にあるものを見届けなきゃ気が済まない」
「でも、何もなかったら?」
「ないかどうかも、まずは見てみなきゃわからないだろ?」

「娘が笑えるようになるのが、私にとってもいちばん嬉しいし、いちばん大事なことだよ。だけど、いま東京を離れてしまったら、今度は私が笑えなくなってしまうのが目に見えてるの。
あの子のことはもちろん、この世界の何よりも大事。だけど私にとっては今の仕事も、本当に、ほんとうに大切なの。私が私であるために」

無理に自分の生き方を曲げたりしたら、いずれどこかしらに歪みが生じる。

両方は選べないのだ。どちらかを取れば、どちらかを諦めなくてはならない。
振り子の音が続いている。

人間って、何かにチャレンジしてその結果を認められるっていう、いわゆる成功体験ってやつがすごく大事でさ。その達成感を一つの小さな集団の中で味わった人は、次はもう少し大きなチャレンジをしたくなる。

『頑張り』っていうのは、理由はないけど好きなものとか、興味を持ってることの面白さを追求するときのためにある。

あの人こそは、『今よりもうちょっとの頑張り』を、生まれてこの方、ずーっと続けてきたような人だ。

きっと、父親が言っているのはそういうことではないのだ。よくはわからないけれど、いつか先で私自身がひとりだちして生きてゆくようになった時に支えになるような何かをーせめてそこにつながるかもしれない何かのかけらをーできるだけ早く自分の中に見つけて育てていきなさい。今よりちょっとずつ、上の自分を目指して。と、そんなふうな意味で言っているんじゃないかと思う。たぶん。
そのためには、自分の中の〈好き〉と、もっと真剣に向き合わなくちゃいけないんだろうなとは思った。答えはきっと、その中にある気がする。

自分は間違っていない、と何度も思ってみた。
頭ではわかっているのに、心がついていかない。

「俺はさ、このとおり、人の気持ちもかまわずにいろいろ知りたがり過ぎるだろ?ママはと言えば、自分こそは知っておくべきだという信念のもとにやっぱり踏み込みすぎる。でもきみは、一にも二にもまずは相手の立場になって、好奇心の手前で踏み止まることができるじゃないか。それって、誰にでもできることじゃない。実はすごいことだよ。俺とママのどっちにもない美徳だなあと思うよ」

「偏見っていうのは、自分とはどこか違っている人と出会った時に、自分のほうが普通で正しいんだって思い込んで、相手のことをへンだとか間違ってるとかって決めつけてしまうことなんだ。自分は間違ってないんだからその人を攻撃してもかまわないって思い込んだり、自分がどうしても感覚的に受け容れられない相手だから嫌ったっていいんだっていうふうに自分を正当化したりする」

「何かをしなきゃいけないと思ってるのに、心と身体が言うことを聞いてくれない。自分のことなのに、自分ではコントロールできない。そういう時ってあるだろ?」

せめて、君の心は守りたい。

「学校なんて、無理して通わなくていい。学校でしか学べないこともあるにはあるだろうけど、一方で、学校では逆立ちしたって学べないことが外の世界にはたくさんある。この世界の全部が、人生をかけて学ぶための学校なんだ。子どものための学校じゃなくて、人間の学校なんだよ」

言葉というものは、慎重に扱わなくてはならない。

「俺、ちょっと甘く見てたかもしれない。 田舎で暮らして農業をやる上で一番重要なスキルってさ、農作業の知識とかより何より、こういう狭い共同体ならではのしがらみの中で、どうやって憎まれずに立ち回れるかってことに尽きる気がするよ」

こちらを良く知ってくれている身近な人たちとだけ付き合っているぶんには、毎日は楽しくて充実していて、東京にいた頃より悩みもずっと少ない。けれど、それでは父親の夢は実現できないのだ。知らない人たちにも、ここの一員だと認めてもらわなくては。

ここじゃあ、一人っきりじゃ何にもできねえのよ。一人じゃどんだけ頑張ったって空回りするだけだ。田舎ってとこは、いいことも悪いことも、どっちも面倒くせえんだよ。

たぶん照れくささの裏返しなのだろう。もしかすると照隠し以上に、自分で自分に言い聞かせているのかもしれない。
大人ってかわいそうだな、と思ってみる。寂しいとか、会いたいとか、もっと一緒にいたいとか。そんなふうな言葉を、なかなか素直に口に出せない。私自身にだってうまく言葉にできない思いはあるけれど、大人たちのはもっとこう、プライドや建前などといったややこしいものが絡まり合っていて面倒くさそうだ。

目標を半分しか達成できなかったのに、半分は達成できた、と言ってくれる曾祖父のことを、改めて大好きだと思った。

理屈ではわかってても、心が納得するかどうかはまた別の話。働くかどうかも含めて、生きていく場所を自分の意思で決められるはずの大人でさえこんなにしんどい。

泣き止む努力を放棄した。

曾祖父を見ていると、つくづくわかる。ネットで検索すればすぐに行き当たる答えと、経験の積み重ねから得られた答えは、表面的には同じように見えても実は全くの別物なのだと。
楽をして手に入れた知識をもとに威張ってはいけない。どうせ受け売りに過ぎないのに、まるで全部を知っているかのように反っくり返り、誰かが別の考えを口にするといちいち〈その根拠は?〉などと言って馬鹿にしたりする人がたくさんいる。

そもそも何がいけなくていじめられたのか。いくら考えてもわからない。
わからないけれど、一つだけはっきりと言えることがある。
(あたしは、あんなふうにはならない)
自分がされたら嫌なことは、人にもしない。ものすごくシンプルな、しかしものすごく大切なことだと思うのだ。

こちらへ来るまで、大豆が枝豆で、枝豆が大豆だなんて知らなかったのだ。全く知らないことは、ネットで検索のしようがない。そうか、人は自分が何を知らないかを知らないでいるのだ。誰にも教えられずにそのことに気づいた時、ちょっとの間、茫然としたのだ。

トウモロコシがいつもより深く根を張るとか、つる植物の絡みつく間隔が狭くてきっちりしているとか、カラスが高い木に巣をかけない、といったような年は、強風が吹くから気をつけるべし、というのも教わった。自然が知らせてくれることはそんなにもたくさんあるのだ。
それなのに、すっかり鈍感になった人間は、そういうサインをほとんどスルーして、誰かのもたらしてくれるデータの数字にばかり頼ってしまう。
なんて情けないことだろうと思った。目も、耳も鼻も、皮膚感覚も、持っているものはぎりぎりまで研ぎ澄ませて使わないともったいない。

やってみりゃあ何とかなる。もはやそれは、父親の人生哲学と、思うかなさそうだった。

今このとき楽しいことを選んで、それだけで生きていくわけにはいかない。そうやって生きていったら、どこかでダメな人間になってしまう。

どうしても行きたくないところへは、無理に行かなくていいって。我慢し過ぎてもよくないんだ、自分の心が死んじゃうくらい苦しいところからは時には逃げたっていいんだ。

人と人との相性だけでなくって、住む場所とか、仕事とか、そういうことにも相性がある。

休みもなしに走り続けたら、心臓が潰れてしまう。だから、心の底から苦しいばっかりだったら、そんなものはやめたらいい。だけどもそれは、とりあえず一度走りだした者にだけ、当てはまることなんじゃないかな。

以前なら夏休みの間だけしか味わえなかったあの解放感が、学校へ通っていない今、始まりもなければ終わりもないまま続いていくのかと思うと、奇妙な感じがした。
終わりを気にしなくていい夏休みって、なんだかヘンだ。夏休みがあんなに楽しみで嬉しかったのは、どうしたって終わってしまうからこそだった気もする。

ここに暮らしていると、自分の話しているいわゆる標準語が、体温を持たない言葉のように思えることがある。

「なんか、考え過ぎちゃうとこ。頭いい人はしょうがないのかなあ。楽しいかどうかなんて、いちいち考えるからわかんなくなるんだよ」

楽しいとは、また明日、の明日が早く来ればいいと思うこと

何でもかんでも自画自賛できる能天気さが、うらやましい。

「いろいろ、余計なことまで考え過ぎちゃうのは、頭がいいからとかじゃなくて、怖がりだからだよ」

「自分のやることが何でもかんでもうまくいくって信じられるんだろ。あんまり手放しで期待しすぎたら、駄目になっちゃった時のショックだって半端ないのに、ほんと強いなあって思う。どうして怖くないんだろ」

次から次に新しいこと思いついて、すぐやる。失敗するかもしれないのに、考えるより前にやってみちゃう。

教えてもらった通りにするっていうのは、実はすごいことで、誰にでもできることじゃない。

「今の世の中、自分らしさがどうとか、個性を大事にとか、よく言われるじゃない。だけどそういうのは、まずは人から教わった正しいやり方をきっちり守るとこから出発して、それが身についた上で初めて問われるべきものであってさ。基本中の基本さえもまともにできない人間が何をしたって、そんなのはいいかげんなインチキに過ぎないよ」

「自分が楽しむのももちろんだけど、誰かにうんと褒めてもらいたいんだ。もし、新しいことを何もしなければ、誰にも叱られない。けど、誰にも褒められない。そんなのはつまらないから、とりあえずはやってみようとする。それだけのことだよ」

挑戦を続けていける秘訣とはつまり、人から褒められたい気持ちに正直でいる、ということなんだろうか。

誰かの頭の中にある考えを、こちらが全部理解できるとは限らない。無理やり変えさせることもできない。

『あんたは幸せもんだ、ちゅうことだわ』
いじめなんかに挫けて、学校へ行けなくなる自分。周りに迷惑ばかりかけている自分。住む場所どころか家族のかたちまで変え、仲良しの父親と母親を離ればなれにさせてしまった自分。
そんな自分が、大嫌いだった。誰からも気に懸けてほしくなかった。こっちを見ないでほしかった。そうはいかないとわかってからは、せめてこれ以上心配されずに済むように、あえて何でもなさそうにふるまってきた。
考えてみるとそれもこれも、全部自分のことばっかりだ。周りに申し訳ないと思うのだって、情けないと思うのだって、結局、自分、自分、自分。あらゆる考え方や感じ方の中心は自分でしかなくて、いつもひとりぼっちだと感じてきた気がする。誰かから「恵まれている」と言われれば、頷くしかなかった。頷きながら、それでもつらかった。
でも、きっと、そういうことじゃないのだ。きっとそういう意味じゃない。置かれている立場とか状況のことを言って、だから感謝しろと迫っているんじゃない。
『あんたは幸せもんだ、ちゅうことだわ』

子どもは大人から心配してもらうのが仕事だ。

初めてほんとうに思ったのだ。今の自分を好きになれないからと言って、ただぐずぐず悩んでいては何ひとつ変わらない。ずっとこの場所で立ちつくしているのが嫌なら、少しずつでも努力して、自分が変わっていくしかないんだ。












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