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殺戮にいたる病

20240420

離婚などという考えが頭に浮かんだことは一度もないが、この人と結婚してよかったと思ったこともない。

自分が他の人間と違っていることにもう何年も前から気付いていた。

去年妻を亡くして以来、ずっとその翌日を、何度も何度も繰り返し生きているような気がしていた。毎朝目を覚ましては、起こそうとして隣に妻の姿がないことに気づく。それから、ゆっくりと彼女との最期の日のことを克明に思い出して初めて、妻がとうに、2週間前に、1ヶ月前に、あるいは半年前に、死んでいるという現実を認識するのだ。

子どもを授けてやれなかった自分を呪った。

他にしたいことなど何もないのだ。何をしたって意味なんかない。あるわけがない。

セックスとは、殺人の寓意に過ぎない。
犯される性は、即ち、殺される性であった。男は愛するが故に、女の身体を愛撫し、舐め、噛み、時には乱暴に痛めつけ、そして、内臓深く己の槍を突き立てる。男はすべて、女を殺し、貪るために生まれてきたのだ。
たった今知った愛について、誰かに語りたくてたまらなかった。そんなものは存在しないし、例え存在したところでわざわざ語る価値さえないと思っていた愛について。真実の愛。人を愛すると、世界は違って見えるので、そんな言葉が本当だとは、今の今まで思ってもみなかった。
視覚も聴覚も嗅覚も、五感のすべてが、痛いほどの刺激を感じていた。

日増しに強くなる切ない胸の痛みを癒すことは決してできなかった。そして、垢が少しずつたまるようにして五感は鈍らされていき、再び世界は離れていこうとしていた。すべてのものにもやがかかって見え、音はくぐもって聞こえた。何を食べても味はなく、匂いもない。足元の地面さえ不確かで、目に見えるものすべてが錯覚なのではないかとさえ思えた。

働くことの大切さも、生きることの大切さも何もわかっちゃいない。

とうに失ったと思っていた生きる意欲を、自分が取り戻し始めていることに気付いていた。

死というものには抗いたがい魅力がある。
タナトス、生を求める本能であるエロスに拮抗する、死を求める本能が人間の心にはある。
すべての生物はいずれ無機質に還るものだから、自ら無機質に還ろうとする傾向があるはずだ。

生命のなんたるかを理解することは、死のなんたるかを理解することと等しい。何故子どもは生まれてくるのか?どうやって自分は生まれたのか?おじいちゃんは一体どこへいったのか?子ども達には実に多くの疑問がある。
しかし、現在のように核家族化が進み、墓地は街中から消え去ってマンションとなり、虫がいないから昆虫採集もできず、アパートではペットを飼うことも許されないという状況になると、子ども達は「死」というものから隔離される。一方マスメディアの中には『死』が溢れている。刑事ドラマや時代劇といったテレビドラマもあるが、もちろん現実の死である殺人や事故のニュースもある。ブラウン管の中のアイドル達がひどく身近で逢い存在であるのと同様、『死』もまた身近で遠い存在であり、ある意味では憧れの対象となりうるのだ。 有名なアイドルタレントが自殺したとき、 子どもたちが競うようにして後を追ったのは、不思議でもなんでもない。 本能かどうかは別にして、タナトス「死」に対する憧れがあったのは間違いがない。

やはり俺は他人のことを考えるような人間ではない。いつでも自分のことだけ。自分のことを考えるのに精一杯なのだ。







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