イヤイライケレという言葉。
真冬の知床にいる。
時間がない中での一泊二日だけの滞在。
人生一度は流氷を見てみたいと思い、仕事を終えた札幌から北東へ向かった。
僕の旅は基本的にノープラン。とりあえず行ってみる。それが好き。結果下調べも碌にしないことから失敗することも多い。でも僕にとって旅はそれでいい。
今回泊まった宿は知床のウトロにある民宿で先住民「アイヌ」の宿。
ウトロという地名とアイヌの宿という言葉に惹かれてここを選んだ。この宿は併設した売店でアイヌの民芸品を売っている知床で唯一の「アイヌ」の宿だ。
極寒の流氷を見て寒さにさらされた体を癒すように宿の温泉に入り、夕食前に少し時間があったので併設された売店に民芸品を見に行った。ドアを開けると店には1人の女性がストーブの前に座り編み物をしながら温かい表情で「こんばんは」と僕を出迎えてくれた。小柄でおおらかな雰囲気を纏ったおばあさんだった。
「アイヌのお茶を飲んでみますか?」ストーブの上に置かれたやかんがカタカタと音を鳴らしている。薬草が入ったお茶で少し肌寒い店内の中で身体が少し温まった。
話をしているとおばあさんはアイヌ3世でもうすぐ80歳、父親は阿寒湖のアイヌの酋長だったとのことで生粋のアイヌ先住民族。僕は人生で初めてアイヌの人に出会った。
小学校の社会科の授業でアイヌの人々のことを習った記憶があるがほぼ何も覚えていない。北海道の先住民で民族衣装を纏った人々、カヌーに乗って自然の中で生きていたという薄っぺらい、もしかしたら間違っているかもしれない情報。正直に言って僕の中で「アイヌ」という存在はそれくらい浅い知識だった。
おばあさんはアイヌの歴史や今日に至るまでアイヌの人々が置かれた状況、おばあさん自身が子供の頃に受けたアイヌとしての差別の話などをしてくれた。
何にも知らない自分に恥ずかしさを覚えたが、おばあさんはそんな僕に優しくゆっくりと話を聞かせてくれた。僕が写真家だと話すと僕のことにも興味を持ってくれて山の話や去年ネパールに行ったときの話をしたり、僕が今まで撮った写真などを見せた。
せっかくなのでおばあさんの写真を撮らせてほしいと伝えると少し恥ずかしそうに承諾してくれた。途中お店に入ってきた孫の女の子もせっかくだからと2枚目は孫と一緒に撮った。フィルムで撮ったのでその場で見せられなかったが、おばあさんは孫と撮れて嬉しかったのか「イヤイライケレ」と僕に伝えてきた。
おばあさんは「アイヌ語でありがとう。という意味よ。」と言ったあとに「アイヌ語で『ライ』は自分を殺すという意味。『ありがとう/イヤイライケレ』という言葉の中に『自分を殺す/ライ』という言葉が入っているの。不思議でしょ?自分を殺すほど相手に謙虚になって感謝を述べるという意味なの。素敵な言葉でしょ。と包み込むような優しい笑顔で僕に教えてくれた。
おばあさんは続けて、「アイヌの言葉でイランカラプテはこんにちは。意味はあなたの心にそっと触れさせてください。という意味が入っているの。アイヌは相手に対してとても謙虚に思っている。それと同時に自然には神が宿っていることを心から信じていて自然ともとても謙虚に向き合っているのよ」と話してくれた。
その言葉の美しさや隠された意味、アイヌの人々の精神に心を打たれ、僕の心はおばあさんにそっと触れられた気がした。
僕自身、山に登り自然と向き合い、そして今この自然豊かな知床の地にいる。東京に住み、その忙しさの中で自分を殺すほど相手に謙虚になって感謝を述べたことがあるだろうか。あなたの心にそっと触れさせてください。と心から相手を謙虚に思ったことがあるだろうか。
アイヌの人々が待つ精神のようにできてはいないだろう。おばあさんに人と接する大切さ、謙虚さを改めて教わった。
今回北海道に来て仕事の傍ら様々な地域で写真を撮り、自分の中でのいい写真はあまり撮れなかったのが心に残っていたけど、おばあさんとの出逢い、アイヌの言葉やその意味を聞いたことで僕の旅はいい写真を撮る以上の素晴らしい時間になったと思う。
別れ際、おばあさんはまた一つアイヌの言葉を教えてくれた。『フチ』おばあさんという意味。
僕には写真を撮るという理由に加えてまた知床を訪れる理由ができた。
それはまたフチに逢いに来るということ。
フチ、イヤイライケレ。
余談だが、
おばあさんと最近起きた知床の事故の話になった時に乗っていた若い乗員は海の仕事がしたいと知床に来てあの観光船の仕事に就いたらしい。初めての海の仕事で初めての出航の日にあの惨劇は起きた。おばあさんは少し遠くを見つめながら「そんな初めての仕事で初めての日に亡くなってしまうなんて。ほんとまだまだ若いのにね。ここになんか引き寄せられたのかねえ。。。」と悲しそうな表情を浮かべながらそっと言葉をつぶやいた。
僕は彼と同じようにこのおばあさんに出逢うため、アイヌの話や言葉を聞くためにたった1日だけでもとこの地に、そしてこのフチに引き寄せられたのだろうか。
そんなもの偶然だよ。とか思う人もいるかもしれない。ただ僕は見えない何かに引き寄せられることも、惹き寄せられることもあると心から信じている。
石橋純
東京を拠点に様々な国や地域の自然に触れながら登山活動をする写真家。 山岳写真をはじめ東京・南青山にあるジャズクラブ BLUE NOTE TOKYO では国内外のトップアーティストを撮影し、雑誌やアルバムジャケットなどの撮影やコラム執筆など幅広い仕事を行っている。
またユネスコの無形文化遺産であるブラジルの伝統芸能「カポエイラ」を25年間学び、LAを本部に置くCapoeira Batuque カポエイラバトゥーキではContra Mestre(副師範) の位を持つ。15年以上子供から大人までを教えながらTVやCM、アーティストのMVや広告などでカポエイラの監修や指導をしながら自身もパフォーマー兼モデルとして活動する。2022年に写真集「Life is Fleeting」を刊行。
Jun Ishibashi is a Tokyo-based photographer. He travels around the globe, engaging in mountaineering and other nature-related activities. His wide range of work includes writing columns and photographing mountains, fashion, album covers, and top artists worldwide̶including ones in Japan’s BLUE NOTE TOKYO, a famous jazz club in Tokyo. He also studied Capoeira for 24 years, a traditional Brazilian art form that is listed in UNESCO’s Intangible Cultural Heritage. As a certified Contra Mestre in the LA- based group Capoeira Batuque, he has been teaching people of all ages for over 15 years. Furthermore, he is a performer and model, supervising and teaching Capoeira on TV, such as in commercials, music videos, and advertisements for artists.
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