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「楽器は知恵の器」 Eテレムジカ・ピッコリーノ総合演出による教科書に載っていない音楽のこと その5

「楽器」という言葉がある。楽の器とはいったい何のことなんだろうと、小さい頃から思っていた。その一つの答えを、スコラ坂本龍一音楽の学校をつくっているときにアフリカの音楽を研究する塚田健一先生から教えていただいた。

「楽器は知恵の器」

すごく腑に落ちた言葉だった。今日はこの言葉をきっかけに話を進めたい。

僕は仕事柄、楽器のようなものを手作りすることが結構ある。バケツに風船を張って太鼓みたいな音が出るのだろうかとか(強度のある風船が必要、ものすごい張力がかかるので結構危険)マウスピースに長さの違う塩ビ管を組み合わせるとトロンボーンのように音程をコントロールできるのであろうかとか(場所が必要だがこれは結構な確率で成功する)エレキギターのボディにバケツをくっつけるとアコースティックギターみたいに大きな音になるのだろうかとか(なるっちゃなる)。

音が出た瞬間になんか不思議な気持ちになる。何ともいえない嬉しい気持ち。そのあとに沸き起こるのは、もっといい音にしたい。あと見た目もかっこよくしたい。という気持ち。

とまあ、楽器づくりというのはとても危険で、無限のアイデアと遊び心と工夫が込められる。どんな素材が身の回りにあって、どんな色にしたいかとか、どうやったら音がでるかなとか、飾り付ける?とか。始めるとキリがない。

今日は僕が考える学校では教えてもらえない楽器論をお話ししたい。

大地を共鳴させる片面太鼓 ー自然と連続するという考え方ー

片面太鼓、フレームドラム、と呼ばれるものがある。要はタンバリンのシャリシャリがないものと思ってほしい。この楽器は今も見れる楽器の古い形として世界各地に保存されている。

不思議な響き。先ほども説明した通り、このフレームドラムは片面しか膜がはられていないもののことを言う。和太鼓とかマーチングの大太鼓とかは両面に張られている。太鼓というのは、叩いた膜と、共鳴する膜がないと大きな音が出ないので、多くの太鼓は両方に膜が貼られている。

星川京児さんという、世界の音楽をフィールドレコーディングされてきた音楽プロデューサーの方にきいた話なののだが、この楽器について、ある地域の方がこう言ったということ。

「この太鼓が共鳴させているのは大地だ。だから片方あけてあるんだ。」

大地が共鳴する?それってドラクエとかやってて笛吹いたら、枯れ果てた森が緑になる、みたいな?

多分そういうことで、ドラクエはきっと神話をベースにしてあるんだと思うけど、音と大地が共鳴しているということをビジュアルで表現しているんでしょう。

この楽器は、本当にそれに近い言い伝えというか楽器のコンセプトが残ってるってこと。

想像したこともなかった。楽器の音色と大自然とつながっているというイメージなんて。だって今や楽器の演奏は室内で演奏されることがほとんどだから。

こんな空想をしてみた。

この楽器を作ったグループは、もしかしたら両面太鼓のオーダーをボスから受けていたんじゃないか。でもいい音の両面太鼓が作れない。試しに片面外してみた。するといい音がした。ボスは両面太鼓をお望みだが、ここは片面太鼓を提案してみよう。やはりボスは怒った「なぜだ!なぜ両面太鼓を持ってこない!」「お待ちくださいボス、片面にしたことにはわけがあります。この音色をお聞きください。大地が共鳴しているのがおわかりでしょうか!」「大地が共鳴???(音に聞き入るボス)確かにそんな音がするな。気に入ったぞ!」となったかもしれない。両面太鼓と片面太鼓どちらが先にできたのかはわからないけど、この片面太鼓の響きとか演奏方法って、大地を響かせていると言われても、ハッタリだと感じさせない何かがある。ここでは冗談交じりに空想のエピソードを書いてみたが、生の音を外で聞くとよりそんな感じすると思う。

そんなこと考えているうちに塚田健一先生から教わった言葉が頭をよぎる。

「楽器というのはそれがどんな音を出すとか、どのように演奏されるかといった以上に、その文化に生きる人々のアイディアがいかに豊かなものであるかを物語るものだ。僕が専門とするアフリカの世界で楽器をいろいろと見ていくと、楽器とはほとんど生き物のように「成長」していっていることがわかる。」(文化人類学の冒険ー塚田健一著)

そっか、楽器ってその地域の象徴なのか。例えば動物を食べて、骨が残って、穴を開けて息を吹いてみると、いい音がした。何ともいえない音だ。もっとこうするといい音がでるかもね。ここはこんな飾りつけてみよっか?

ってことなのかもしれない。その土地に生息する植物、人々の食生活などの結晶が楽器って考えると、その地域の神々というか、ポケモン、もしくはモンストロみたいに思えてくる。いただいた動物の皮と、そこに生息している樹齢100年の木材を組み合わせて太鼓を作ろうとか。その音を聞いた時に、何ともいえない気持ちになっただろうな。

楽器制作を任された人たちは、楽しさとやりがいが溢れ、努力を惜しまなかったと思う。

ピアノというブラックホール ー漆黒のデザインの秘密ー

じゃあ現代も普通に使われている楽器、エレキギターとかシンセサイザーとかピアノとかバイオリンとかドラムセットとかは、何かを象徴してんのかい。自然とか文化と連続してるとか思いにくくないか、という問いが立つ。

自然とは連続していないかもしれないけど、文化や環境とは連続していると思う。

たとえばピアノ。ご存知の通りピアノは、鍵盤を押すと内側のハンマーが振り下ろされてピンピンに張られた弦を叩いて音を出す。それの音が、木のフレームと共鳴して豊かな音色が響くという仕組みだ。

ピアノをつくるためには高度な技術が必要だった。

木材を成形する技術、金属を成形する技術、ピアノの内側のフレームには20トンもの張力がかかっているらしく、その張力に耐えうる、フレームと弦の加工技術。こうした技術は、産業革命の産物だし、そうした文化背景の象徴とも言える。アフリカの楽器のように大自然とは連続していないかもしれないけど、工業社会という文化背景の象徴として生まれた楽器と言えるかもしれない。

楽器職人というか楽器デザイナーの観点でピアノという楽器をもう一度眺めてみるとピアノってものすごいヒット作だなと思う。ピアノのひと世代前の鍵盤楽器、チェンバロとか、クラビコードを見てみると、ピアノがいかに革新的なデザインだったか感じざるを得ない。

チェンバロとかクラヴィコードは、木材に豪華絢爛な絵が描かれてたりしてる。

でもピアノは基本真っ黒。

チェンバロとかクラビコードは、ピアノと比べると箱型に近い直線的なボディ。

でもピアノは曲線的なのボディ。

これクラビコード。なんか、レトロアーケードゲームみたい。

これチェンバロ。曲面もあるけどピアノほどじゃない。痛車かってくらいに絵が描かれてる。

多分、ピアノが発表されたときを現代で例えるなら、iPhoneが出た時みたいな衝撃だったんじゃないのかな。これが携帯なの?これが楽器なの?

なんでこんなシックなデザインにしたんだろう。

ここからは僕の空想。

チェンバロとかクラビコードはサロンと呼ばれる室内で限られた人たち相手に、もしくは自分の作曲用に使われていた楽器。つまりそのくらいの音量しか出ない。でもピアノはそれに比べるとすごく大きな音が出た。これ一台で大観衆に向けてコンサートホール全体に響かせることができる。そのときに適切なデザインって何なの?って考えただろう。当時世の中は産業革命まっただなか、木材の曲線的な成形も可能。色は真っ黒にしよう。だって、すごい大きな音出るんだよ、もしかしたら世界中の音楽がこの楽器で演奏されるかもしれないんだよ、キリストとか書いちゃうと、世界中の音楽演奏するの気がひけるでしょ。何かに限定しない方がいいとおもうよー。と。楽器デザイナーたちは、この楽器が世界の音楽を全て吸収するブラックホールになると、予知していたのかもしれない。実際ピアノができたあと、西洋のクラシック音楽と呼ばれるジャンルは、ガムランとか東洋の響き、アフリカのビート、ヨーロッパの辺境の旋律など、ありとあらゆる音楽を吸収した。

もしピアノが真っ黒じゃなかったら、そうなってないかも。かもね。

チェンバロみたいな絵が描かれてるピアノでドビュッシーが東洋的な響きを演奏したとは思えないもの。


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