今の私になるまで #003 ~中学校編~
中学校へ入学するも
小学校4年生から寄せ集めで出場していた陸上競技に興味をもち、中学校に入ったら陸上部に入部することを希望していました。
しかし、私が入学した中学には陸上部はありませんでした。
仕方なしに小学校から続けていた野球を続けることにしました。
(人生初の坊主にしました笑)
小学校よりは楽しめたかな
小学校と同様、厳しい練習と指導が多かったのは事実です。
エンドラン、スクイズなど緻密なプレーの練習が多く、個人的には選手一人としての成長を重んじてほしかったという思いがありました。
しかし、学校の部活動の一環であったので、常識をもった練習、指導ではありました。
中学校一年生の内は小学校時代を引きずり、精神的に弱かった部分はあったのですが、徐々に通常通り練習に取り組むことができていきました。
ですので、純粋に野球を楽しめていた時期は多少なりともありました。
3年生の総体前
野球部に入ってからはたくさんの良い成績を残すことができて楽しかった思い出があります。
特に自分たちの代は地区大会は当然のように優勝。秋、春に県大会ベスト8まで上り詰めるほど活躍していました。
個人でも、市の選抜チームでショートのレギュラーとして試合に出場する経験をさせてもらいました。
当然最後の夏の総体も勝ち上がって、県大会優勝を目標に練習に励んでいました。
しかし、ある総体前の練習試合の日。
その日はバッテリーが不在で、他の選手が急増でバッテリーを組むようなチーム状況でした。
私はチームの副キャプテンで、キャプテン不在の状況でチームを引っ張る必要がありました。
なので、私はいつも以上に懸命に声をだし、プレーでもチームを牽引しました。
その日の試合は大敗。
試合後顧問からはこんなコメントが返ってきました。
「お前らはあいつら(バッテリー)がいなければ何もできないのか。」
「特にお前(私)。お前が一番頑張ってない。」
私はその言葉を言われた瞬間一気に野球への情熱が冷めました。
総体までの練習や練習試合は何となくしのぎ、声はほとんど出しませんでした。
総体は地区予選の準決勝で敗退したのですが、チームメイトみんなが泣いている中私は涙1つ流さず、「やっと終わった」と一人安堵していました。
その後も市の選抜チームでの試合に出場したりしましたが、野球への情熱は無く、すぐに終わることを望んでいました。
駅伝との出会い
夏の最後の大会が終わって、有志の生徒が集まって大会に出場する駅伝に取り組みました。
その時、元々春シーズンの陸上も同じように有志で集まっていて、私は中長距離種目に取り組んでいました。それが駅伝に取り組んだきっかけです。
この時点で、高校では陸上をやりたいと思っていて、この駅伝で頑張ろうと心に決めていました。
足は遅かった
私は地区大会でAチームには入れないくらい足が遅かったです。
結果、Aチームが県大会を決めてくれて、当時有志の3年生は5人しかいなかったので、記念としてメンバーに入れてくれました。
本番は走った6人の中でダントツ遅いタイムでした。
タイムをだせなかった悔しさもあり、記念でしかメンバーに入れてもらえない悔しさもありました。
悔しいと純粋に思える競技に出会った
レースを終えて、なんとも言えない気持ちになる。
こんな経験、野球ではありませんでした。
野球では負けた時、何が原因で負けたのかよくわかりませんでした。
でも、駅伝で悪いタイムで走って、「自分の力が足りなかった」って初めて純粋に悔しいと思う感情を知りました。
本当に悔しかったんですけど、この競技ならこだわれると思ったきっかけになりました。
自分が何にこだわるかを決めた日
総体前にやる気を失ってしまったのは申し訳ないと思ってます。
それでも、スポーツを通じて得た経験はどんなことであれ、今の私を物語っています。
陸上に出会ったことで自分の責任で全ての結果を操ることができる。
それを学べた中学時代になりました。
最後に
なかなか酷なことを書きましたが、中学時代、ご指導にあたってくれた先生方、先輩方、同期の仲間、後輩たちには本当に感謝しています。
関係者の方が見ていましたら、少し不快に思う内容かもしれませんが、noteは私のことを発信する一つの場ですのでご容赦ください。
今後も私の記事を読んでくださると嬉しく思います。
以上、中学野球編でした!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?