母と妹に「あなたは運が良いから」と言われて育った。 けれど私は自分が特別運が良いとは思わない。 特別運が良いわけでも運が悪いわけでもない。 でも人に運が良いと言われることの所以は何か。 を、昨日少し考えていたのでここに示す。 私は人と話すとき、どうでもいい話題の中から少しでも"良い"ことを選ぶ。 楽しいことをより楽しそうに、嬉しかったことをより嬉しそうに、面白いことをより面白そうに。 悲しかったことを「でもそれって面白いよね」「興味深いよね」と面白そうに。 人と話すなら、ど
6/14、自由な魂と自己肯定感について一日中考えていたらカートにまで入れてた推しのボイスを発売期間中に決済することを忘れてました。泣いてないです。泣いてないけど自分のワーキングメモリと過集中を呪ってます。 以下、推しのボイス(以下略)を忘れるほど考えてた今日の呟きを時系列順にコピペしてきました。 自由な魂にとってはその魂を既存の何かの形である箱に入れられることは死ぬことよりもつらい。 自分の自由さを、気ままさを他人に認めてもらうためには自分自身が他者の自由さを認める必要が
あなたを蝕むその暗闇を代わりに引き受けたくて けれどどうやってもあなたが恐れるその足音が私には聞こえない だから私たち同じ暗闇には居られない 私は海だと思っている この世を 暗い海に漂うようだと思っている そういえばあなたがこの世をどう捉えているかとか話したことはなかったね 暗いかな明るいかな広いかな狭いかな海かな砂漠かな 同じ海を漂いながらたまに手を振り合えれば良かったね 私はよく他人に興味がないと言われるんですけど、上にしたためた詩のように他人を捉えていて、わりと人
知識は光。 知っているから初めてそこに光が当たり、鮮明に見えるようになる。 知らないと見えないものがこの世にはたくさんある。 深夜2:00、視聴者数10人前後の配信のコメント欄に私は居た。 居る、のだ。 見ているだけ、聴いているだけではなく居る。 そこを選んで。自宅の布団の中、ではなく私はそこに居た。 音楽を作りながらゆるく雑談すると銘打たれたその配信に雑談はあまり存在していなかった。 音が生まれるたびに、そして消されるたびにその人から漏れる楽しげで苦しげな、けれどやっぱり
難しい理屈はわからないけど好きなものは好きで、私が「良い」と思ったらそれはもう私にとってとにかく良いもので、「好き」はそれに気がついた途端強い力を持つ。 好きになっても嫌いになるのは簡単で、内側に招き入れたものに祈るように願う。嫌いにならなくて良いものでありますように、と。 内面化。 取り込んだ価値観が私の血肉に埋もれて血が通ってしまう。 そうなるともう引き剥がすのは難しくて、喪うときは痛くて血が出ていつも泣いてしまう。 幻滅したくない。誰かにも自分にも。 だから心が動かない
好きな小説のひとつに島本理生『シルエット』がある。 初めて読んだのは中学生の頃で、その本のことを考えるときはいつも湿度の高い空気と節の多い木材に囲まれた一階の真ん中の、三年二組の教室を思い出す。 固い表紙の重さとざらざらとした紙の感触も手に思い出す。 今私の手元にある『シルエット』は文庫本だけれど初めて読んだのはハードカバーだった。 こんなにはっきりと初めて読んだ場所も時も覚えているのに、初めて読んだときはあまり"刺さ"らなかった。 中学三年生の、まだ恋らしい恋も知らない私
母親と顔が似ている。 父親にも顔が似ている。 妹とは昔は似ていなかったけれど加齢と肉がディティールの差をどんどん埋めてきて、今では道行く人に「双子かな……?」と言われるほど似ている。 そして娘とも顔が似ている。 以前書いた髪を11ヶ月ぶりに切ったという日記で「髪が短くなるとどんどん母に似ていってしまうのでアイデンティティの境界についてバグを抱える私はどんどん落ち込んでいってしまった(ニュアンス)」みたいなことを書いた。 アイデンティティの境界。 遺伝の仕組みを考えると両親に
メイクって嘘みたいに言われることが多いけどさ、嘘と言うより努力目標みたいなものじゃない? 本当のありのままの顔じゃないかもしれないけど、私は私のポテンシャルをここまで引き上げることが出来ます、この顔に見合った人間であろうと努力します、みたいな。 私はね、家から出るのが苦手なんだけど、家を出るときにはだいたい化粧をする。 それに掛ける時間はなんとなく、本当になんとなくの肌感覚でしかないんだけど出掛ける距離や時間に比例しているような気がする。 長くもつメイクをするほど、長い時間ち
私の名前は裕太だった。 産まれる前に、両親によって用意されていた名前が裕太だった。 でも産まれたら女の子だった。2130gしかない、女の子だった。 子どもの名前って産まれてから2週間以内に届けなくちゃいけない。2週間、14日以内。 私の名前は結局ある日突然父が呼んだ名前になった。 小学生のときに親に名前の由来とか生まれたときのエピソードを聞く授業があった。 幼い私は「なんでこの名前なの」と言った。責めるような響きを選んで、言った。 「さやかとかかわいい名前が良かった」 同
ガンガンガンガンガンガン、ザリザリザリザリという音がキッチンから響いた。 同居人がゆで卵をキッチンの作業スペースの天板にすごい速さで打ち付けていた。何回も、何回も。 「一ヶ所じゃないんだね」 キッチンのカウンター越しにダイニングテーブルから声を掛けると同居人は卵から目を上げ、こちらを見て、にこりともせず口を開けた。 「こうして方がきれいに、どこからでも剥ける」 もう目線は手元に戻り、粉々になってもくっつく欠片をやや雑にも見える勢いの良さで剥いていく。 「へえ、そうなんだ」 僕
今年は終わってみたら幻みたいな夏だった。 いまだクーラーのついた西日の差す部屋で、5分袖のTシャツで寝転がりながら思った。 少し違うかもしれない。今年は、じゃなくて夏はいつもそんな気がする。 それも違うかもしれない。このところ季節が1つ終わるたびそんな気持ちかもしれない。 私は真夏でも外に出るときは長袖を着る。 長袖長ズボンに帽子をかぶって、眼鏡をかけてマスクをして日傘を差す。 それでやっと部屋の外に出られる。 部屋の外は、情報が多い。 陽射し、風の音、季節の草花の香り、
眠れない。 日本人の5人に1人は不眠症なのだそうだ。診断がつくとかつかないとかは関係なく、自覚と無自覚と関係なく。 私も今日のように、こうやって度々眠れないが素人考えの決めつけで勝手に月経周期のせいにしている。 大抵の不調は月経周期と低気圧のせい。 そういえば赤ん坊は低気圧だとよく寝るらしい。 外は雨で、おそらく頭上は低気圧のはずだからこのまま私も赤ん坊のようにすやすやと眠りの世界に意識を放り投げたいものだけど、それが簡単に出来るならこうやって文字を綴っていない。 私は別に
『何を望み、何に満たされ、何を思うか、人間は自由だし、自分以外すべて他人。』 自分のツイートを読み返すのが好きだ。今日も今日とて読み返していたところ見つけた2022年6月3日の呟き。 すごく端的に自分のという人間の考え方がまとまっていて、読んだ瞬間とてもテンションが上がった。 つまり、自分で書いたことをすっかり忘れていたのだ。 私はとても内向的な人間で、専業主婦として有り余る時間の中で毎日常に自分の内側の声に耳をすましながら生活している。 何を見て何を思うのか、何を聞いて
私は賢いので人より多くのことに気がついたり、ぼんやりとした不快感を言語化することに長けている、と自分では思っている。 別に本当に賢いわけではなく、ただ単に人より多く自分の裡に生まれた感情に言葉を与えようと試行錯誤してきた時間が人より多く、言葉をこねくり回すことが呼吸のように自然になっているだけである。 ツイ廃の弊害ともいう。 ということで子の学校から配られたプリントへの不快感と不信感と非倫理性に言葉を与えて学校とケンカしてきた。 そしたら担任は「これが最善」と押し切ろうとし
ロールプレイングが苦手だ。 ゲームの話ではない。リアルの話だ。 我が子やよその子がおままごと(彼らはそれをおうちごっこと呼ぶ)をしているのを見ている、もしくは視界に極力入れないようにしながら危険があったときに対処できるよう音だけ聞いているだけでも私にはとても苦痛だ。 子は家でも「病院ごっこしよう」と言う。 私が絶対に応じないことを知っているので大体の場合発する相手は夫だ。 そしてやっぱり私は聞いているだけで不快なので文字を読んだり何かに集中して音だけ聞いて意味を聞かない方法
本が読めなくなっている。 昔は本当に本の虫で、毎日学校の図書館から2冊借りては2冊返すペースで本を読み、それにプラス市立図書館で週に10冊借りて読んでいた。何なら借りに行ったらその場で1、2冊読んでから帰っていた。 高校のとき校長の思いつきで急に発表されたクラス別図書貸出冊数が、私が在籍していたクラスがぶっちぎりの1位で、集計させられたという図書室の司書の先生が「クラス合計の260冊中200冊があなたが読んだ本よ」とその日に笑って教えてくれた。 それくらい本を読んでいた私が今