見出し画像

境界線

『何を望み、何に満たされ、何を思うか、人間は自由だし、自分以外すべて他人。』

自分のツイートを読み返すのが好きだ。今日も今日とて読み返していたところ見つけた2022年6月3日の呟き。
すごく端的に自分のという人間の考え方がまとまっていて、読んだ瞬間とてもテンションが上がった。
つまり、自分で書いたことをすっかり忘れていたのだ。

私はとても内向的な人間で、専業主婦として有り余る時間の中で毎日常に自分の内側の声に耳をすましながら生活している。
何を見て何を思うのか、何を聞いて何を思うのか、何をして何を思うのか、ひとつひとつ情報を感情を取捨選択しながら、ポロポロと拾ったり捨てたり思い出したり忘れたりしながら生命維持活動に勤しんでいる。
漠然とした快に理由と名前を与え、漠然とした不快に根拠と筋道と対処を与える。

例えば、高くなる外気温に誘われ今年初めて作った水出しコーヒーの苦みに「アイスコーヒーは深煎りだから」と知識を実感に変えつつグラスに牛乳を足して美味しく飲み干したり。
おいしいものに満たされる。寝る前にガラスポットに投げ込んだ水出しコーヒーのパックが時間経過で色が変わり味が変わったことに満たされる。計画と行動が結果として上手く現れたことに満たされる。
小さな小さな満足感で満たされた生活の中でぷかぷか漂いながら、過ぎていく時間への焦燥と恐怖を飲み込んで生活は続く。

死なないように生きている。大学生のとき、高校生からの友人が亡くなったときからそうしている。
一昨年息子が亡くなったあと気がついた。自分が死なないように生きていることに、気がついた。
でも気をつけていたって人は死ぬ。息子のように。

いつ死んでも良いように、なんて難しい。人はいつか死ぬことを知っているのに生活が続いていかないことを想像するのは難しい。
息子が亡くなった日、私は恐れていた。息子の気配が色濃く残るこの家で、この街で息子のことを思いながら生きていくことを。毎日○年前の今日と通知を送ってくるGoogleフォトを。
けれど、通知を見ないで消すことも、気まぐれに通知を受け入れ息子の居た日々の写真を見ることも今の私には当たり前だ。当たり前に、毎日痛い。
痛くて泣きそうで、実際少し泣いたりしながら生活は続いている。
私と息子は結局他人で、私は生きているから続いている。
些細なことに満たされたり憤ったり、痛がったり泣いたりしながら続いていく。
そんな日々で感じるすべては私が言語化して発信しない限り私だけのもので、それはなんだかすごく贅沢で、そして少し寂しいことだなと思った。
だからこうやってnoteに記して、手のうちをさらけ出して、そうしてやっぱり書けば書くほど自分の境界線を、他人は他人でしかないことを強く意識することを思い知った。
私は私のかたちを思い描くことは出来ないけれど、私の言葉は私の境界線を、どうやらもうとっくに知っているようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?