ロールプレイングと一般化、あるいは平均化

ロールプレイングが苦手だ。
ゲームの話ではない。リアルの話だ。

我が子やよその子がおままごと(彼らはそれをおうちごっこと呼ぶ)をしているのを見ている、もしくは視界に極力入れないようにしながら危険があったときに対処できるよう音だけ聞いているだけでも私にはとても苦痛だ。
子は家でも「病院ごっこしよう」と言う。
私が絶対に応じないことを知っているので大体の場合発する相手は夫だ。
そしてやっぱり私は聞いているだけで不快なので文字を読んだり何かに集中して音だけ聞いて意味を聞かない方法を取る。

なぜ自分がこんなにもロールプレイングが苦手なのか私は今明確な解を持っていない。
それを探るためにこの文章を書き出したわけでもない。

ただ少し理解したのだ。ロールプレイングが嫌いで苦手だから私は上手く世間一般的な"お母さん"への擬態が苦手なのだ。
世間一般的なお母さんのイメージに擬態することはおままごとと同じなのだ。

何かを演じるとき、その何かが具体的な固有名詞でない場合、例えばおままごとの"お母さん"である場合、演じるためには一般化が必要である。平均化でもあるかもしれない。
でも私は主義主張的に、お母さんも100人いれば100通りだと思っていて、そもそもの一般化や平均化自体への嫌悪感と忌避感が強くある。
"お母さん"の一般化/平均化はジェンダーバイアスであり、ステレオタイプへのレッテル貼りだ。
ジェンダーバイアスとレッテル貼りを毛虫の如く嫌っている私がおままごとが嫌いな理由はおそらくそれであろう(結局原因に言葉を与えてしまった)。
私は演じること自体は苦手ではない。怒っていないとき、けれど怒る必要があるとき怒ることが出来る。また逆に怒っているときに怒っていないふりが出来る。
けれどそれは自分がいつか体験した感情を掘り起こしたり、目の前の事象に対して当然起こりうる感情の再構築だったり、演じるのは"誰か"ではない。
自分以外の誰かを演じるとき表に出てくるのは対象である"誰か"に対する自分の持っている評価だ。
私はもう常日頃から誰かにジャッジされることにも誰かをジャッジすることにも疲れ切っているのだ。
できることならことごとくジャッジする/されるの場から離れたい。
何とも長年採点競技をしてきた人間らしくないことを言っている。
けれどルールに乗っ取って優劣を決めるスポーツと違って、人間には個々人の間に違いはあれど優劣はない(ということになっているしそうでなくてはならない)ので、私は誰かをジャッジする立場ではないし誰かに自分がジャッジされることを尊厳の侵害だと思っている。
私のこの一連の考えの根底を揺らす出来事がない限り、私はずっとロールプレイングが嫌いで苦手なままだと思う。
けれども私はそれであまり不便を感じていないし、苦手な人間でむしろ良かったとさえ思う。

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