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当事者意識と解像度

本が読めなくなっている。
昔は本当に本の虫で、毎日学校の図書館から2冊借りては2冊返すペースで本を読み、それにプラス市立図書館で週に10冊借りて読んでいた。何なら借りに行ったらその場で1、2冊読んでから帰っていた。
高校のとき校長の思いつきで急に発表されたクラス別図書貸出冊数が、私が在籍していたクラスがぶっちぎりの1位で、集計させられたという図書室の司書の先生が「クラス合計の260冊中200冊があなたが読んだ本よ」とその日に笑って教えてくれた。
それくらい本を読んでいた私が今、1年で5冊くらいしか本を読めていない。

具体的にいつから読めていないのかと言うと出産後からだ。
もう子は7歳の誕生日を迎えたのでかれこれ7年本が読めていない。

自分が本が読めなくなる日が来るとは10代のころは思ってもいなかった。
すべての感情を押し流すかのような勢いで本を読んでいた。
本の世界に集中しているとき、そこは水の中のように静かだった。
1冊の本を読み終わるときはいつも水の中から上がってきて息継ぎをするような気持ちだった。
あのころの私には世界はとても騒がしく、水の底で本を読んでいるときだけが静かだった。
クラスの窓際後ろから2番目の席で、窓の下の壁に寄っかかって座った和室で、私は水の底から晴れあがった空を見上げるような気持ちで生きていた。



あの頃より私が世界に迎合して、守られた集中の水の中にいる必要がないから本を読まなくなったわけではない。
ただ単に、産後や育児中の母親にはまとまった時間が足りないのだ。
読書の時間を私が水の底に喩えたように、水に潜って底までたどり着くのに時間がかかるように集中を深めていくのにはなかなか時間がかかる。
対して産後の、乳幼児と暮らしている人間にはまとまった時間などない。
睡眠ですら3時間ごと(よく3時間ごとと言うけれどこれだって平均だかよく眠る方の子の例だかで実質乳児が3時間ごとに規則正しく寝てくれる保証などまるでない)で、まとめて寝るようになったころの子は動くし喋るのだ。

うちの子はよく登る子だった。何に登るかと言うと、ソファに、机に、キッチンカウンターに。
ソファ伝いにキッチンカウンターに登り食器かごで乾燥中の包丁に触った事件の話は何度だってしたい。
ソファの配置を変えることで再発は防げたが、その後はパソコンモニターを引き倒し壊したりそれはもうアグレッシブな乳幼児だった。何度ソファをリビングの真ん中から窓際の端まで移動させられたかわからない。


子どもというものの自ら死ににいく仕様は7歳になった今も変わっていない。
ソファの背もたれで平均台しながらゲームして頭から床に落ちたりなど、今年に入ってからでももう何度「いい加減にしないと本当に死ぬよ!!!」と言ったことかわからない。

ということで子が家にいる間はいまだ片時も目が離せないわけで、時間などほぼない。
けれど学校や寝てからなど時間はいくらでもあるように思えるかもしれない。
けれど日中警戒レベルMAXで過ごしていた神経を休ませるためTwitterをひたすらスクロールしたりだらだらだらだらゲームしたりそうやってMPを回復させることしかできない。少なくともMPの回復に人一倍時間のかかる私はそうだ。
7年の月日の中で長い文章を読む体力が完全に失われている。
筋肉が使わないと弱っていくのと同じく読む力も書く力もそれをしなくなると細々とやせ衰えていくのだ。
だからこそこのnoteの日記には「書くことリハビリ日記」というタグがつけられている。
子は7歳になっても今はまだまだ産後のリハビリのような時間なのだ。
長い。本当に長い。
でもまだ産前と同じだけの気力を私は生活に取り戻せていない。
もしかしてこれは乳幼児期に使わなくて衰えただけではなく加齢で喪われたものでもあるのだろうか。
わからないけれど今見ている世界はここに来るまではまったく想像も予想もしていなかったものだなぁと思うと、世の中はすべて当事者意識と解像度が重要で、世の少数の想像力に恵まれた賢い人だけが渦中にいなくとも何かを考えたり議論したりできるのだろうかと思ったり思わなかったり。
そんなことを考えながらお風呂の浴槽で溺れている。そんな2023年初の書くことリハビリ日記だ。

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