秋風

今年は終わってみたら幻みたいな夏だった。
いまだクーラーのついた西日の差す部屋で、5分袖のTシャツで寝転がりながら思った。
少し違うかもしれない。今年は、じゃなくて夏はいつもそんな気がする。
それも違うかもしれない。このところ季節が1つ終わるたびそんな気持ちかもしれない。

私は真夏でも外に出るときは長袖を着る。
長袖長ズボンに帽子をかぶって、眼鏡をかけてマスクをして日傘を差す。
それでやっと部屋の外に出られる。

部屋の外は、情報が多い。
陽射し、風の音、季節の草花の香り、湿度、人の往来、車のウインカー、すれ違う人、漏れ聞こえる誰かの言葉。
情報の一つ一つが肌を、脳を、突き刺すようにそれぞれに対応した思考を、記憶を次々に想起する。疲れる。
だからそもそもの入ってくる情報を絞りを絞るように減らすために長袖も帽子も傘も必要だ。


私はずっと自分の内なる声に耳をすませて、何か気持ちをざわめかせるようなものにはその都度試行錯誤して対処してきた。
どういったものがどうして感情の水面をざわつかせるのか、そして落ち着かせるのか内側に問いかけ続ける毎日だった。
だから、感情を、その源泉を言葉にして自分で制御できて人に伝えられるものに変換することで、自分から切り離して言葉にして捨て置くことに長けていると自分では思う。
湯を沸かすように一瞬で膨れ上がった気持ちを観察して言葉にして、言葉にしたらもう自分のものではないかのように扱ってきた。
だから私はあまり泣かないし悔やまないし痛がらない。
そのつもりだったけれど今日はずっとなんだか泣きたかった。
自分でも理由がわからないままずっと泣きたい気持ちを抱えて、今日のやるべきことをこなしていた。
日が短くなった。風が冷たくなった。道行く人は半袖より長袖が少し多くなった。金木犀がうるさいくらいに主張している。駅前に飾られはじめたお祭りの提灯。
街はいつの間にか夏が終わっていた。
息子が消えたあの日に似ていた。
つい昨日まで夏だったみたいな顔をした、けれど明確に夏じゃない季節。
息子が居なくなったのもこんな秋のはじめだった。

息子が居なくなってからずっと、季節が少し私から擦れた位置で推移しているみたいな気分だ。
私が家から出なくなった。
暑い暑いと言いながら公園で虫を見つけたり、風が舞いあげる砂に肌を打たれたり、手折られたばかりの花を渡され手に取ったりしなくなった。
小学生になった娘は1人で家を出て、1人で帰ってくる。
私はずっと家で待てば良い。
息子が居たらどうだっただろう、と久々に少し考えていた。
でも、居ないのだから考えても仕方がない。

部屋の外が怖い。
風は温度も、香りも、湿度も、音も持っている。
情報が多い。
たった3年で私の肌にたくさん刻まれた息子のと記憶が、その温度で、香りで、湿度で、音で、呼び覚まされる。

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