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電車の中/あるエピソードとそこから生まれた物語


 今でもずっと羨ましいエピソードがある。
 十年以上前だが、新聞で読んだ読者からのエッセイを掲載する投稿で、と 
 ても印象深く残っているものがある。
 あるご婦人がご主人とのエピソードを綴ったお話なのだが、こんなことあ
 るんだと笑ってしまうと同時に、人間的で「なんだかいいなあ」と思わず
 呟いてしまいました。全文は記憶していませんが、大まかに説明するとこ
 んなお話です。
 ご夫婦の姪っ子さんがご結婚することになり、お二人も出席することにな
 っていたのですが、その際、姪っ子さんがご主人に「結婚式で歌を歌って
 ほしい」とお願いします。姪っ子さんとおじにあたるご主人はとても仲良 
 しで、ご主人も可愛い姪っ子のためならと引き受けます。ところがこのご 
 主人、本当は歌がとても苦手。けれど姪っ子の晴れの舞台に向けて、連日  
 カラオケに通って披露する歌を練習していたそうです。
 そうして迎えた結婚式当日。ご主人は緊張しながらも万全の状態でその日
 を迎えたわけですが、披露宴ではありがちの、時間通りに進行が進まず、
 当初の予定より押してしまい、披露するはずだったご主人の歌が本番当日
 になってカットされてしまったのです。
 結婚式のあと、お二人は電車で帰宅するのですが、せっかくの歌を披露で
 きなかったご主人は、落胆してかなり飲んでしまったらしく、酔っ払って 
 いたそうです。けれどもそれは悔しいというより、姪っ子さんを祝ってあ
 げたかったのにできなかった寂しさの方が大きかったようで、昇華できな
 い気持ちがたまらなくなったご主人は、席から立ち上がると、同じ車両に
 いた乗客に向かって、こういう事情で自分は今日姪っ子に歌を贈れなかっ
 た、けどどうしても祝いたい。歌わせてほしいと言い、披露するはずだっ
 た歌を車内で歌い始めたそうです。夜遅い時間で、乗客もそれほど多くな
 かったといいますが、皆さんビックリしたでしょうね。けれどもおおむね
 好意的で、歌い終わったあとは拍手が起こったといいます。ご一緒にいら
 した奥さんはとても恥ずかしかったそうですが、歌が苦手だったご主人が
 そうまでして歌いたかった思いや、受け入れてくれたその場にいた乗客の
 人達の優しさに胸がいっぱいになった、というお話です。
 

 「こういうエピソードを思い付きたかった!」
 このエッセイを読んだ時、心からそう思いました。こんな面白くて、
 絵になり、しかも多様な目線から体験することができるシーン、小説だっ 
 たらどんなに楽しく書けたかしらんと、今も憧れまくっている。この場に
 居合わせたかったなあとオマージュを込めて「電車の中」というタイトル
 で、勝手にセッティングしてみました。いずれも本エピソードと一切関連 
 はなく、以下のものは完全なるフィクションであることをご了承下さい。

「電車の中」 乗客① 倉本歩水(くらもと あゆみ)17歳        


 歩水は反抗期真っ只中の高校二年生。シングルマザーの家庭で育つ。
 地元の女子高に入学したが、校風が合わずに学校をサボりがち。
 注意する母親とはもう三週間も口を利いていなかった。
 最近はあまり家にも帰っておらず
 同じ中学だった香純の家に泊まらせてもらっていた。
 別の高校に進学し、半年で退学した香純は現在ニート。
 放任主義の家庭で、歩水が連泊しても何も言われないので居座っていた。
 だが今日、一緒にテレビを観ていた時に香純の推しのアイドルの髪型が変 
 だと笑ったことでケンカになり、絶交を言い渡されてしまった。
 他に行く宛がなく電車に乗ってぷらぷらしていたが、やがて夜になる。
 家に帰ろうか迷っていた。だが母親からの着信は全てスルーしていたので
 戻りづらい。けどお金もなく、他に泊めてくれる相手も見つからない。
 どうしようかな…と考えていた時だった。
 斜め向かいにいた夫婦とおぼしきの二人の旦那さんが「乗客の皆様」と言
 って突然立ち上がった。携帯を見ていた歩水はびっくりして顔を上げた。
 するとおじさんは、本日姪っ子の結婚式があったのだが、披露するはずだ
 った歌が歌えなくなった。けど練習したのでどうしても聞いてほしいと、 
 その場で歌い出したのだった。歩水も他の乗客も呆気にとられていた。
 決して上手ではなかったが、その歌には愛する誰かを祝いたい気持ちが詰
 まっていた。 何かが歩水の心に触れた。少々酔っぱらっているようだが
 黒いスーツに白いネクタイのおじさんは、唄い終えるとみんなにお辞儀
 をして、ハンカチで額を拭った。車両内は一瞬静まり返ったが、十二、三
 人ほどいた乗客たちの、誰からともなく拍手が起こった。それは仕方なく
 叩くまばらなものではなく、おじさんの気持ちを受け取った上で、練習を
 重ねてきた努力と真心に対しての温かい拍手であった。
 歩水も自然とそうしていた。知らない歌だけど、知らない人だけど、拍手
 がしたかった。小さな感動が胸に込み上げていた。
 その時、歩水の携帯に着信が届いた。母親からだった。
 『どこにいるの?心配だから連絡して』
 いつもなら「ウザ」の一言で無視する。けれど今はなぜかそのメッセージ
 から別の言葉が読み取れる。これを送った母親の姿すら見えていた。
 さっきのおじさんの奥さんらしき人が「ご迷惑お掛けしてすみません」
 とこちらに向かって謝っていた。いえいえとみんな笑いながら手を振っ 
 ていた。歩水もそっと「大丈夫です」のジェスチャーを返した。
 私、ちゃんと「人の気持ち」理解できてると思った。
 どうしても歌いたかったおじさんの気持ちも、
 恥ずかしそうにしているおばさんの気持ちも、
 拍手をしたくなる気持ちも、全部分かる。
 歩水は画面のメッセージに再び目を落とした。
 全部分かって、これだけ分からないなんて、そんなはずなかった。
 いつも疲れてる母親の重荷になってる自分が辛かった。
 もう大人なんだと認めてほしい。なんでもひとりでやれるのだと。
 離れることで自立できるんだとアピールしていた。 
 でも実際は他に行くところがない。
 香純とケンカしたら、もうひとりぼっちなのだ。
 こんなことしてる方が負担を掛けるだけって知ってる。
 でも素直になったら自分を守れるか不安だった。
 ほしいものが手に入らない時、愛されたいのに冷たくされた時、
 ぐちゃってなりそうで怖いから、
「本当にしたいこと」がいつもできなかった。
 絵が得意だったけど、ネットに上がってるイラストのレベルの高さに
 自信をなくして、描くのを止めてしまった。
 せがんで買ってもらったIpad も最近はベッドの下に放ったらかしだ。
 いつでも勝手に無理と決めつけ、負けるのがカッコ悪いから挑戦しない。
 20万もするものをプレゼントしてくれたのに
 埃を被ってるのを見てガッカリしてるんだろうな。
 でも「ごめんなさい」なんて恥ずかしくて言えなかった。
 でも今日は久しぶりに絵を描きたくなっていた。
 自分の部屋で思うがままにタッチペンを走らせたかった。
『今から帰るよ』
 歩水は打ち込む指をふと止めて書き直した。
 『今帰るとこ
 電車でめっちゃ面白いことあった
 家着いたら話すね』
 送り返すと、間もなくして母親から着信が来た。
 『楽しみ!待ってるね』
 つい口許が緩んでいた。こんなことなら動画撮っとけばよかった。
 やがて最寄り駅に到着すると、歩水は誰より先に電車を降りていった。

「電車の中」乗客② 坂出友和(さかいで ともかず)49歳


 坂出はとある中小企業の課長。六年前に離婚をし現在独り暮らし。
 大学生になる息子とも全く性格が合わずに疎遠になっている。
 生真面目でお堅い坂出は社内でみなに恐れられていた。
 久しぶりに晴れた日曜日だったので、坂出は趣味の仏閣巡りに出掛けてい 
 た。普段は車での移動がほとんどだが、今日はちょうど車検でディーラー
 に愛車を預けていた。貸し出された車は乗り慣れない軽で、車内の匂いが
 どうも嫌だったので、自宅のガレージに置いて電車で行くことにした。
 彼は昨今の御朱印ブームが気に入らない。その寺院の創建の歴史や意義、
 仏像の系譜も名前すら知らずに「ご利益」と「撮影」だけを求めてやって
 来る参拝客にうんざりしていた。同じ課の若い奴が「三峯神社に行って
 狼の御朱印もらってきた」などと軽々しく話していると、つい口を出した 
 くなる。彼等が持ち合わせていないだろう知識を問うて、答えられないと
 「そんなんでは参拝ではなく、ただのハイキングだよ」と一喝してしまう。
 いじわるではなく、本当にその神社に失礼と思うからだ。
 なので坂出を慕う部下は誰もいない。用件だけ伝えて早々に立ち去る。
 坂出自身も部下と馴れ合うつもりもないので気にも留めていなかった。
 乗客もまばらな車内で、今日訪れた神社の拝殿や神主の祝詞は実に素晴ら
 しかったなと感慨に浸っていた。坂出は本殿の中を拝観するために、初め 
 て訪れる神社では必ずご祈祷を申し込んだ。祈祷の内容を書く用紙には
 毎回「家内安全」に丸した。離れて暮らしていても息子は大事な家族。
 健康で安心のある生活を送ってもらいたかったからだ。
 祈祷の際に授与された御撒品を紙袋から取り出し、箱を開け掛けた時だ 
 った。見知らぬご仁が歌を歌いたいと立ち上がって言った。姪の結婚式だ
 ったが時間がなくて歌をカットされてしまった。けど自分は今日まで練習
 してきた。このままではあまりに寂しいので是非聞いてもらいたい、と。
 何言ってるんだ、ここは公共の場だぞ…。坂出が口に出そうとする前にご
 仁は唄い始めてしまい、信じられないが笑顔で手拍子をする乗客もいた。
 少々酒が入っていたご仁の歌は決してうまくはなかった。しかし彼が練習 
 を重ねてきた一生懸命さが端々に滲み出ていた。
 それは新しい門出を祝う歌。誰かの幸せを祝福する歌だった。
 知らず知らず坂出はご仁の歌に聞き入っていた。多分彼とはそう年も離れ
 ていないはず。けれど自分は絶対にこんなことはしない。同じ立場にあっ 
 ても思い付きもしないだろう。まるでエイリアンに遭遇したみたいにご仁 
 を眺めていたが、歌が終わったあとは、他の乗客に釣られて拍手をした。
 なんとも珍しいものを見たな。不思議な気持ちのまま家に着き、急いで車
 を取りに行った。誰かに話したいと思ったが、閉店ぎりぎりになってしま 
 ったため、車検証の書類を慌ただしく渡されただけで帰宅した。
 翌日坂出は少し楽しみな心持ちで出社した。昨日の電車での出来事をみん 
 なに聞かせたかった。だが、ずっと怖い課長だった坂出の側には誰も近寄
 らない。書類の確認にデスクにやってくる部下に「そういえば昨日な」と
 口の中に含ませているのに、みなさっさといなくなってしまう。仕事中は  
 仕方ないと昼休みまで待ったが、そう広くはないはずの社員食堂の彼の座
 るテーブルの周りだけ閑散としていた。
 いつもこんなんだったか?坂出は初めてその不自然な空白に気付いた。同  
 じ課の部下たちは、奥のテーブルでひとかたまりになって、楽しそうにお 
 喋りしていた。坂出だけぽつんとひとり離れ小島にいた。
 おい。誰か来いよ。別に今日は怒らないぞ。懸命に笑顔を作って周りを見
 回した。すると部下のひとりと目があった。だが彼はあたかも気付いてい
 ないかのようにすいと視線を逸らして、手に持っていた携帯を見始めた。
 ショックだった。はっきりできた奇妙なサークルはまるで結界のようだっ
 た。あちらとこちら。目に見えて分け隔てられていた。
 誰ひとり自分に近付かず、近付きたがらず、近付こうともしない。他者は
 自分を映す鏡という言葉がふっと浮かんだ。とすればこの結界は自分が作
 ったものだった。こんなにも距離は離れていたのか…と、呆然とした。 
 こんなとびきりのエピソードがあるのに聞かせる相手がいない。それは聞
 きたがる者もいないからだ。誰も寄ってこない。誰も側にいない。
 そうだと思って息子の携帯に送ろうとしたが、着信拒否をされていた。
 会う度に説教してしまうから、もういいと音信を断たれてしまったのだ。  
 …………………………………………………寂しい。
 初めて湧き上がった感情だった。坂出は空になった皿を前にじっと座りな
 がら、テーブルの上で手を重ね合わせていた。あのご仁の気持ちが今こそ
 分かる。痛いほどに。誰かに聞いてほしい。この胸にあるものを。
 立ち上がって「みんな聞いてくれ」と言ってみようか。夕べの彼の勇気を
 真似してみようか…。
 坂出はまだみんなが残っている社食をゆっくりと見渡してから息を飲み、
 グラスに半分あった水を飲み干して、ぐっと膝に力を入れた。


 
「電車の中」 乗客③ 小沢麻衣子(おざわ まいこ)29歳
           岸本 渉 (きしもと わたる)38歳

 麻衣子と渉は不倫カップル。互いに配偶者がいる。そこそこ知名度のある 
 画家の岸本は美大の講師もしている。麻衣子は都内にある美術館の学芸員
 で、二年前に開催されたマティスの展覧会でパンフレットの解説文を書く
 ためにと、詳しい人物を探していた時に紹介されたのが岸本だった。
 どちらも既婚者だったが、出会ってすぐに惹かれあい、間もなくして
 逢瀬を重ねるようになった。
 しかし互いに配偶者と別れられない事情がある。どうやっても一緒には
 なれないが、それをもう悲しむのを止めた。何が正しいかと考えたりも
 しない。あらゆることが間違っていようと、知ってしまった熱や、印字
 された思いを消去するなど無理だったからだ。
 だから会えた時は子供のようにまっさらな気持ちで楽しむ。近況報告では 
 なく未来の話をする。夢というほどではない、ささやかな望みについて。
 行ってみたい国。食べてみたい料理。人生で一度は挑戦してみたいこと。
 まるで付き合いたてのカップルのように、そんな話で盛り上がる。
 夕べ彼が何を食べたかより、彼女が昨日の同僚とどんな話をしたかより、
 以外な発見こそを共有する。そこにこそ二人だけの世界がある。
 小さな宝石を宝箱に集めるようにして、誰にも打ち明けていない秘密を教 
 しえあっては、大切にしまって互いに鍵を隠した。
 麻衣子も渉も運転をするが、逢瀬の時に車は使わない。設置されたドライ  
 ブレコーダーはシリアルナンバーを入力すれば誰でもスマホで確認できる
 からだ。特に渉の妻は嫉妬深く、彼の帰りが予定より一時間遅くなるだけ
 で、仕事場に電話するほど独占欲が強い。自分の妹ですら二人きりで話す
 のを許さないほど偏執的に彼を愛していた。
 麻衣子にも渉にも子供はいない。代わりにどちらにも口うるさい義母が
 いる。十二歳年上の書道家を夫に持つ麻衣子には早く孫の誕生をせかす
 義母。妻の実家に暮らす婿養子の渉には美術品収集家で芸術論を語りたが
 る義母がいる。その相手に指名されるのがいつも渉だった。彼女は彼が
 勤める芸大の学長でもあり、家全体を仕切っていて、誰も彼女に逆らえな
 かった。だから二人は何より自由を求めていた。その魂が惹かれあった。
 今日は渉は米寿を迎えた恩師のお祝いに出掛けた。癌で余命半年と宣告
 されていた恩師は元教え子の訪問をことのほか喜び、帰り際には渉の手を
 力強く握ると「心に従えよ」と告げた。その目に死の恐れはなかった。
 麻衣子は彼の遠出に同行したが、恩師と会うことはせず、近くの図書館で
 待つことにした。その立場にないからだ。
 黄昏前の図書館に戻ってきた渉は麻衣子の顔を見るや否や、人目も憚らず 
 に彼女を抱きしめた。感傷や疲労ではない。今の彼にとって最も神聖であ
 ると信じることを偽りなくしたかった。無垢な生命の尊さを、その弱ささ
 えも愛おしかったからだ。渉は腕にくるむ麻衣子に言った。
「僕たちは汚れない。どこにいても、僕ら二人が汚れることは決してない」 
 電車に乗って長い時間揺られた小旅行も終わりに近付いていた。
 夜の帳が落ちてきた窓。乗客まばらな車両の中はやけに明るく、まるで
 蓋を閉めた洗濯機から眺めているようだと麻衣子は思っていた。
 二人は一番端のシートに座り、互いの足の谷間で手を繋いでいた。あまり
 会話はなかった。言葉にすれば何もかも逃げてしまいそうな気がして、こ
 うして掴まえておくのが精一杯だった。
 「しばらく会えないかも」
 渉は前を見たまま言った。
 「うん」
 麻衣子は頷いた。なぜ、とは聞かなかった。彼の声が夜に溶けそうに
 優しく、心音みたいに心細かったからだ。
 その時だった。一番奥のシートにいた、黒いスーツの男性が立ち上がって
 歌を歌いたいと宣言した。渉も麻衣子も驚いてそちらに目を向けた。
 服装からして結婚式の帰りと分かる男性は、その通りに姪っ子の挙式があ 
 ったと説明してから、披露宴ではカットされたがこの日のために練習して 
 きたから是非とも歌いたいと言い、本当にその場で唄い出したのだった。
 男性は酔っていたが、思いも足元もふらついてはいなかった。懸命に声を
 張り上げて、しかし真摯に歌い上げようとしている姿に、麻衣子はうろた
 えるほど心を打たれ、頬に涙が伝っていた。ささやかな幸せを願う、祝福 
 の賛歌。誰にも歓迎されない自分達を、彼の歌だけが赦してくれていた。
 麻衣子の涙に気付いた渉は自分の肩に抱き寄せて髪を撫でた。いつも不確
 かな約束しかない二人に、確かな希望が生まれたのを感じていた。
 歌い終えた男性に拍手を送った渉も麻衣子も、いつになく晴れ晴れした
 笑顔を浮かべていた。単におかしかったのもあるが、正直でてらいない、 
 ダイレクトな思いを見習いたくなったからだ。愛を歌って何が悪い、と。
 駅に到着すると「飲んで行こうか」と渉は言った。
 ええ。麻衣子は答え「いいもの見たわね」とくすくす笑った。
 ほんと、と渉も頷きながら微笑んだ。
「あの人の姪っ子さんはとても幸せだね」
 そうね。小さく返事をしながら、私もよ、と麻衣子は胸の中で呟くと、
 まだ人の往来のある歩道を彼の腕に寄り添って歩き出した。


 
「電車の中」乗客④ 佐久間瑞穂(さくま みずほ)41歳

 瑞穂は先日勤めていた高齢者施設を解雇された。常に人手が足りないはず
 の業界で、四年間無遅刻無欠席だった瑞穂がクビを言い渡されたのには、
 言うに止まれぬ事情があった。
 瑞穂は十三年前まで小学校の教師だった。だが最後に受け持ったクラスで
 不運な事故があった。甲殻類にアレルギーのある女子生徒が誤ってカニの
 エキス入りのスープを飲んでアナフィラキシーショックを起こした。救急 
 車で運ばれ、すぐに処置を施したが意識不明のまま生徒は三日後に亡くな
 った。瑞穂は女子生徒のアレルギーを把握しており、献立表の食材もちゃ
 んとチェックしていたのだが、事故が起こる二週間前に、これまで配膳を
 担当していた給食センターが倒産し、新しい会社に切り替えたていた。そ
 の会社の体制に問題があり、食材の表記もいいかげんだったせいで、その
 日の献立表にもカニは明記されていなかった。
 だが責任は担任だった瑞穂にも向けられた。紛糾する学校説明会では、
 瑞穂の応急措置が適切だったかを問われ、自分が先に食べて確かめなかっ 
 たのかと詰問もされた。大事な生徒を亡くしただけでも、張り裂けそうに
 辛いのに、まるで自分が彼女を見殺しにしたかのように批判され、心が壊  
 れてしまった。生徒の死亡原因は、食材の明記を怠った会社に不備があっ
 た過失事故として扱われ、瑞穂が罪に問われることはなかったが、一度で
 も狐がいるぞと指をさされたら、ずっと矢を持つ者に追われ続けるのだ。
 今回の解雇もそこからの飛び火だった。
 入居者の家族のひとりがどこからか瑞穂の過去を聞きつけ、施設長に報告
 したことで一気に広まった。事故であったにも関わらず事件として伝播し 
 、その日を境に瑞穂に冷たい向かい風が吹き出した。
 これまで毎日感謝の言葉をくれていた入居者があからさまに苦々しい顔で
 世話を拒絶するようになり、中には、そういえば自分もあの人の運んでき 
 た食事を食べた後に具合が悪くなったことがあると言い出す者まで現れ、
 瑞穂を担当から外してほしいと直訴しては「恐ろしい」と本気で怖がる老
 人が続出した。
 けれども非はないはず。あれは事故だった。瑞穂は自分を信じた。逃げた 
 ら認めることになると、自ら辞表を出したりしないと決めていたが、決壊
 したダムの水流には抗えなかった。日に日に同僚たちの態度はよそよそし 
 くなり、裏方ばかりを任され、飲食を扱う仕事からは完全に外された。瑞
 穂は生徒を助けられなかったかもしれないが、これでは犯人扱いだった。
 だが今は耐えてやり過ごすしかなかった。
 しかし半月前、施設長から退職を促された。申し訳なさそうに目を逸らし「佐久間さんには、本当に頑張ってもらってたのに…」と告げて黙った。
 それ以上言わせるのが忍びなく「お世話になりました」と受け入れた。
 けれどまだ職探しをする気にはなれない。「今はゆっくりすればいい」と
 恋人は彼女を励ました。
 瑞穂は独身だが同居するパートナーがいる。大下克己という二歳上の男 
 で、細々とライブハウス中心に活動している売れないミュージシャンだ。
 県議会員の父親から英才教育を受けて育ったが、思春期にラジオから流れ
 てきたロックに魅了され、そこから音楽漬けの人生に一変した。父親から
 は勘当を言い渡され、もう二十五年の故郷とは疎遠であった。
 克己は瑞穂の過去を知っている。だが知っているというだけ。それを含め
 て彼女を受け入れてくれていた。克己はステージに立てばギターを掻き鳴 
 らして火花を飛び散らせるが、家にいる時は物静かな優しい男で、一緒に
 いて安らいだ。
 あの一件で瑞穂の家族も誹謗中傷に晒され、引っ越しを余儀なくされた。
 自分が関わればまた迷惑が掛かる。なので瑞穂は以来家族と距離を置いて
 いた。帰る場所がないもの同士。同じ穴に暮らす熊みたいに互いの体温だ
 けで温め合う暮らしが瑞穂には居心地がよかった。
 だが一昨日、克己の父親が亡くなったと母親から知らせがきた。葬儀に参 
 列するべきか克己は夜通し考えていたが、今朝になって「行ってくる」 
 と、なぜかギターを持って帰郷した。
 瑞穂は洗顔前の顔で彼を見送った。どうするかは彼が選ぶことだから、
 何も促さなかった。行くと言うので止めなかっただけだ。
 けれどこの日は苦しくも十三年前のあの事故のあった日であった。瑞穂に
 とって忘れようとも忘れられない日に彼の父親も亡くなる奇妙なえにし。
 克己のいない部屋はなぜかひどく広く感じた。六畳二間のよくあるアパー 
 ト。互いの荷物で壁が埋まるほどごちゃごちゃしてるのに、どうして今日 
 はこんなにぽっかりしてるのか。ブラックホールならず、透明な虚空に引 
 き込まれそうな気がして恐くなり、瑞穂は目的もないのに財布と携帯だけ
 をバックに入れて部屋から飛び出していた。
 けど海が見たいわけでもなく、ショッピングに繰り出すテンションでもな
 く、映画を鑑賞する気分にもなれない。どこに行けばいいか分からないま
 ま、とりあえず駅までのバスに乗り、ちょうどやって来た上り電車で滅多
 に来ることのない遠い町まで出掛けてみた。
 二時間ほどで到着したのはオフィスと若者が多く集まる都会の駅だった。
 電車の中で目的地を決めた。水族館にしようと思った。
 自分のペースでゆったりできて、静か過ぎず、かといってうるさ過ぎるこ
 ともない。何も考えずにいられるからちょうどよかった。
 けれど日曜日の水族館は家族連れとカップルと外国人観光客で賑わってい 
 て、人気の水槽前は場所が空かずに思うように見えなかった。それでも水
 の浄化作用なのか、青色の鎮静効果なのか、歩いているだけでリラックス
 していて、天井を泳ぐマンタやイワシの群れに首を反らして見入った。
 最後に来たのはペンギンの展示されている広場。フンボルトペンギンと
 キングペンギンとイワトビペンギンとジェンツーペンギンの四種類が飼育
 されている。一番楽しみにしていたエリアだった。
 瑞穂はペンギンが好きで、昔はピングーというキャラクターグッズを集め
 ていた。何よりフォルムが可愛い。好きが高じて生態にも詳しくなった。
 特にペンギン界のアスリートと言われるジェンツーペンギンが好きで、会
 うのを楽しみしていたが、オレンジ色の嘴のジェンツーペンギンは身動き 
 ひとつせずガラスの向こうの岩場でポツンと佇んでいた。
 走りながら子育てし、最高時速35kmにもなるほど泳ぎが得意なのに、こ
 の狭い場所では本来の彼らの持つ能力も本能も封じられていた。偽の大陸
 で、冷房の風に当たりながら、形だけのジェンツーペンギンとしてマネキ
 ンになっているだけであった。
 思い切り羽を広げてみたいな。青い海をぐんぐん泳いだら気持ちがいいん
 だろうな。でこぼこの大地をどこまでも駆け抜けてみたいな。速いんだ
 よ。とっても。南極に帰れたら、見せてあげたいな。
 そんな声が聞こえた気がした。奪われた野生を嘆いていた。
 あれは私だ。瑞穂は思った。生きる場所を選べずに、得意だったものや
 培った力を剥ぎ取られてゆく。走ることを禁じられたガラスの都会で。
 切ない気持ちに染められたまま瑞穂は帰りの電車に乗った。日曜日なので
 帰宅ラッシュにはならなかったが、仕事帰りとおぼしき人も多くいた。
 新しい職場を探さなければならないが、また同じことが起きるのではと思
 うと、たまらなく悲しくて勇気が萎えてしまう。
 明後日は亡くなった生徒の命日。毎年墓参りをして花を手向けていた。お
 菓子やジュースも一緒に供える。行くのは夕暮れ。遺族と対面しないよう 
 に、遅い時間にしていた。彼女の両親はずっと瑞穂を許していなかった。
 仕方ないと思っていた。幼い娘を亡くせばやりきれない。自分も子供がい 
 たら、同じように誰かを責め立てて気丈を保とうとしただろう。自分は
 ガラスケースにいればいい。羽をたたんで、別の生き物になっていれば。
 二度乗り換えをし、長い移動もあと三駅だった。電車内に喧騒はなく、
 立ってる乗客もいないが、全部のシートが埋まってるわけでもなかった。
 瑞穂は膝に置いた手荷物の中身をちらと確認した。
 水族館のお土産屋で、ペンギンのキーホルダーと、真っ白いイルカのぬい
 ぐるみを買った。可愛いものを部屋に飾るタイプではないのに買ってしま
 ったのは、亡くなった女子生徒にあげたくなったからだ。
 笑顔の可愛い子だった。跳び箱が得意で、字がとても上手だった。いつも
 元気いっぱいで、長い髪がジャンプするイルカみたいに跳ねていた。
 渡せるはずもないぬいぐるみ。こんなことしても罪滅ぼしにはならないと
 分かってるのに…。込み上げる嗚咽を堪らえ、口を押さえた直後だった。
 瑞穂の座るシートの向かいにいた、結婚式帰りとおぼしき五十代頃の
 夫婦のご主人が突然立ち上がった。そして乗客の方に体を向けて立つと
 今日は姪っ子の結婚式がありましてと話し出し、歌を唄うはずだったが、
 カットされてしまい心残りだ。せっかく練習をしたので誰かに聞いて頂き 
 たい。そう言うと、ほろ酔いのご主人は電車内にも関わらず本当に歌い出
 したのである。瑞穂は唖然としたまま通路に立つ男性を見ていた。同時に
 彼の奥さんも視界に入った。もう止めようにも止められない。困ったよう
 に周囲に頭を下げていた。申し訳なさそうに、何度も。何度も。
 そんなに謝ることない。みんなびっくりしてるけど、誰も怒ってないし、
 笑顔で手拍子してる人だっている。何も悪くない。謝罪なんていらない。
 瑞穂は必死に前にいる奥さんに目で訴えた。その時だった。
 (わあ可愛い。これ私の?)
 ふっと声がした。え?と思った次の刻、空席だった瑞穂の隣のシートに
 亡くなった女子生徒がちょこんと座って、いつの間に袋から出したイルカ
 のぬいぐるみを抱っこしていた。
 (こういうの欲しかったの。嬉しい!)
 女子生徒はあの日着ていたのと同じ青いTシャツに白いデニム生地のスカ
 ート姿だった。さらさらの長い髪からバニラの香りがしていた。
 瑞穂は彼女の名前を呼んだ。そんなはずがないと思っているのに、笑うと
 少しめくれる口唇や長いまつげ、日焼けした華奢な腕は瑞穂の記憶に残る
 女子生徒のままだった。
 (先生面白いね、あのおじさん。電車で歌ってる)
 彼女はおかしそうに笑った。足を前後に振りながら肩を揺らした。
 (でもこれ、いい歌ね。私気に入っちゃった)
 そう言われて瑞穂も彼の歌に耳を傾けた。少し古い歌だが、結婚式
 ではよく歌われる曲だ。新しい道を進む者に送る祝福の歌。
 もし彼女が生きていたら結婚していてもおかしくない年齢になっていた。
 今日この歌を捧げられていたのはこの子だったかもしれない。
 「ごめんね…。助けてあげられなくて」
 瑞穂は小さく告げた。涙が溢れた。
 (私そんなのほしくない。こっちがほしいの)
 女子生徒はイルカのぬいぐるみに頬ずりして瑞穂を見つめた。
 (先生も走っていいんだよ。このおじさんみたいにさ)
 そうして彼女はぬいぐるみを脇に持ったまますとんと席を降りると
 (もらっていくね、これ)と手を振って消えた。
 はっとした瞬間、歌を終えた男性は深々とお辞儀をした。瑞穂が見回して
 も女子生徒の面影はどこにもなく、隣のシートは空席のままだった。イル 
 カのぬいぐるみもビニールに包まれて紙袋に収まっていた。なんだったの
 か…とぼんやりしていると、誰からともなく男性への拍手が起きた。みな
 笑っていた。奥さんに叱られながら腰を落とすやり取りに、もう一度笑い 
 がさざめき、瑞穂も釣られたように笑みを浮かべて拍手を送っていた。
 人生で一番辛い日。そんな日に笑いながら拍手をしているなんて信じられ 
 なかったが、こんな珍しい体験はそうそうなく、温かい気持ちになってい
 た。この電車に導いてくれたのは彼女だったのかもしれないと思った。
 先生、笑ってよ。
 それを言うために来てくれたのだろう。面倒見のいい子だったから。
 そうだね。そうだよね。こんな風にしてたらいけないよね。ずるいよね。
 二日後の女子生徒の命日。瑞穂は墓参りに行くのを止めた。自分の中で
 区切りが付いていた。彼女は分かってくれている。そう思うことができた
 からだ。代わりに自宅に手紙を添えてイルカのぬいぐるみを贈った。捨て 
 られてもいい。けど彼女が欲しがったからだ。
 すると数日後に女子生徒の母親から返事が届き、一枚の写真が同封されて 
 いた。そこにはイルカのぬいぐるみを大事そうに抱きしめながらおやつを
 食べている男の子が映っていた。彼女の姉の四歳になる息子さんだった。 
 イルカのぬいぐるみがお気に入りで、お風呂の時以外は離さないという。
 箱を開ける前からイルカさんが来たと言ったので驚きました。このぬいぐ
 るみのおかげですんなりお昼寝もしてくれます。ありがとうございました。 
 ベージュ色の便箋にはそう綴られていた。瑞穂は手紙を胸に抱いた。涙が
 とめどもなく溢れ落ちた。隣の部屋でホットプレートでお好み焼きを作っ
 ていた克己は、ちらとだけ瑞穂の様子を伺うと「マヨネーズ多めにしとく
 なあ」と声を掛けた。うん、と鼻を啜りながら、女子生徒にそっくりの男 
 の子に、ありがとうと微笑んだ。


 「電車の中」 乗客⑤ 松下竜太郎(まつした りゅうたろう)24歳
 
 
 竜太郎は大学を二年で退学して以来、バイトを転々をしてるフリーター。
 ギャンブルにはまっていて、借金が60万あるが、仕事が続かないため
 返済が滞りがち。家族にも何度も嘘をついて金をせびっていたが、家賃
 を滞納していると、保証人になっている父親に管理会社から電話が来た
 ことで、実は電気もガスも止められていることも全てばれてしまった。
 こんこんと説教された後に、無駄遣いせぬように銀行のキャッシュカード
 を母親に渡して金を管理してもらう方法を取ったが、スロットやりたさに
 どうしても現金が必要になると、スマホの簡単決済で高額転売できそうな
 ゲーム機を購入してはリサイクルショップに持ち込み、換金した3~4万 
 を握りしめてパチンコ屋に直行して数時間粘る。 
 そんな生活をしていれば当然金などすぐに底を尽きる。カードを管理して
 る母親から残額の減りが早いと怒りのメッセージが届き、父親からも何度
 も電話がきたが、言い訳のしようがないので全スルーしていた。
 すると数日後ポストの中に真っ白い封筒が入っていた。母親からだった
 が宛先が書いてないので直接投函しに来たらしい。
 開封すると渡してあったキャッシュカードと、カードと同じサイズのメモ
 用紙が入っていた。一行だけの文言があった。
〈実体のない信頼を預かっていても意味がないので返します〉
 それは絶縁通告であった。幾度となく借金で足りなくなった生活費を補填
 してもらい、連絡がつかなくなったのを心配して何度もアパートまで足を
 運んでピンポン押されたが、会いたくないので居留守を使っていた。
 こんなことが続けば誰だってもういいやと思う。竜太郎も母親の気持ち
 に同調することができるのに、自分を変えられなかった。
 ある時から一切連絡が来なくなり、ひんやりする不穏さを感じていたが、
 こちらからコンタクトを取ることもしなかった。なんだかんだ言って親 
 たちに見捨てる度胸はないだろうとタカをくくっていたが、とうとう堪忍
 袋の緒が切れたらしい。修復は多分無理だった。親の性格は分かってる。
 悪い人ではないが未熟な部分があり、一度許さないと決めたら、徹底的に
 冷淡になる。だがそれを決意させたのは自分だった。
 仏の顔も三度まで。親は四度目まで我慢してから見放した。仏よりも忍耐
 強かったが、その分、己の罪も重かった。
 ギャンブル依存性だと自覚していた。親も分かっていて救済しようとして 
 いたが、竜太郎自身にギャンブルを辞める意思はなかった。渡したカード
 はバイトの給料の振り込み用の口座だが、実はもうひとつネットバンキン
 グにも口座があり、パチスロのyoutube などで小銭を稼ぎ、その幾ばくか
 の収入源で通い続けていた。
 けどもうヤバかった。先週からバイトを無断欠勤している。自動車の下請 
 け工場で働いていたが、入れ替わりの激しい職場のため、一年在籍してい
 るだけでベテラン扱いになる。バイトとは思えぬ責任ある任務を負われる
 のに給料が変わらないことに憤りを感じ、課長に何度も改善を求めたが、
 二ヶ月経っても変わらなかった。部長に掛け合ってると言うばかりで、毎
 日毎日きつい現場を任され、いよいよ限界が訪れた。
 やってらんねえ。
 月曜日の朝、布団から出ず、課長からの再三の着信にも出なかった。もう
 行く気もなかったので、火曜、水曜と連日無断欠勤した。クビになっても
 構わない。すると金曜日になるとポストに封書が入っていた。契約解除の
 承諾書だった。今のご時世、例えバイトであろうと勝手に解雇できないら
 しく、業務に支障が出ると会社が判断した就労者を辞めさせる際でも書類
 に本人のサインが必要になるのだ。要は後から不当解雇と訴えられないた
 めの念書である。
 どうでもいい。竜太郎は半分だけ読んでその辺にポイと投げ捨てた。ゴミ
 だらけの部屋は、一度行方不明になったものは永遠見つからない。送り返 
 すつもりもないのでどこに行ったか確認もしなかった。
 そのまま一週間過ぎた。九日間だけ通ったものの、給料日まではまだ11日
 もある。しかし口座にはもう81円しかなく、財布には316円しか残ってい 
 なかった。インスタントラーメンが3袋だけあるが、電気もガスも止まって
 いて、調理のしようがない。面倒になると全部をスルーする性格のせいで
 友人からの返信も無視しまくってた結果、アドレスにいた友だちもいなく
 なった。唯一気軽に会えるのは、昔バイト先が一緒で、近所に住んでいる
 十也だけ。十也は全くヤンキーではないが、車のカスタムが大好きで、め
 ちゃくちゃ車高の低い中古のBMWに乗っていた。彼は既に正社員として働
 いて、自分の生活費をきちんと管理できており、その車のローンも滞りな
 く返済していた。同い年なのに彼はとてもしっかりしてる。だからなのか、 
 性格も穏やかで優しい。気分で行動せず、常に常識ある大人だった。
 竜太郎がラーメンを持って訪ねれば、ガス台と鍋を快く貸し、酒やおかず
 も提供してくれる。竜太郎にとってなくてはならない、数少ない心開ける
 友人だった。
 その十也が五日前に事故に遭った。半導体メーカーで製品管理の仕事を
 している彼は、倉庫内での作業中にフォークリフトとぶつかって大怪我
 をし、そのまま病院に搬送された。幸い命に別状はなかったが、背骨を
 骨折し、最悪の場合は半身不随になる可能性もあるという重症だった。
 なのに竜太郎には彼の見舞いに行く交通費もなかった。入院している病院
 はアパートから6つ目の駅にあり、徒歩で行くとしたら片道でも8時間は
 掛かる。じっとしていられないぐらい不安で仕方ないのに、なにもしてや
 れない。往復の電車賃900円すら用意できない自分が情けなかった。
 けどどうせ仕事もしていない。こんな気持ちでいるぐらいならと、歩いて
 行くことにした。電気が止まっているので、充電はいつも近所にある閉店
 後の理髪店の屋外コンセントを無断で拝借していた。おあつらえ向きに
 店主の自宅は店と離れた場所にあり、防犯カメラも付けていなかった。
 本体とモバイルバッテリー二本分。一時間あれば完璧だった。
 竜太郎は日曜日の朝7時に部屋を出た。地図代わりのスマホも充電ばっち
 り。空のペットボトルに唯一生きてるライフラインの水を汲んでいった。
 天気のいい日で暑かった。途中休憩を挟みながら歩きに歩き、午後の3時
 半過ぎ、ようやく十也の入院している病院に到着した。全身汗まみれで、
 足もガクガクだったが、やっと会えると嬉しかった。
 なんと言って励まそう。きっと気落ちしてる。面会の受付をしてからも
 掛ける言葉を考えながらエレベーターに乗った。四人部屋のドア側のベッ
 ドに十也はいた。腰をギプスで固定され、不便な体勢で寝ていたが、部屋
 に入る前から笑い声と賑やかな話し声が聞こえた。彼の地元の友人が五人
 面会に来ていた。3か月は安静。もしかしたら車椅子生活になるかもしれ
 ないというのに、十也は「痛いんだから笑わせるなよ」と明るい声でニコ
 ニコしていた。友人たちもいたずらに慰めたりせず、かつての思い出話を
 楽しげにしていた。竜太郎は部屋の前で立ち竦んだ。彼に元気になってほ
 しいと思っていたのに、くじけるなよと言いに来たのに、そうでなかった
 十也に「よかった」と思えなかった。ぼっちは自分の方だった。何より
 こんな状態でも自暴自棄にならず、恨み言も漏らさぬ十也の寛容さが衝撃
 だった。自分だったら来る奴来る奴全員に悪態を付いて「お前らには分か  
 らないよな」と同情をせびるくせに、それを突っぱねて、顔にぶつける。
 誰でもそうなると思っていたから、十也の苛立ちを受け止めてやるつもり
 でいたのに、彼は笑顔でガス台を貸してくれる彼のままなのだ。
 病室なのに花畑のように見えた。この笑い声は十也も彼らを大事にしてき
 た証だった。入れない。竜太郎は通路に佇んでいたが、気付いた十也が自
 分の近くに招き入れ、友人らに紹介し、竜太郎と趣味が同じのひとりと、
 さりげなく話題を繋げて仲間に入れてくれた。優しさに救われたが、汗臭
 い自分が恥ずかしかった。
 アパートに戻ってもひとりだから、面会時間終了の8時まで居座っていた。
 その間、十也の会社の上司や同僚も彼の見舞いに訪れた。みんな心から彼
 を心配し、回復を祈っていた。みんな十也が好きだから、彼にいなくなっ
 てほしくないのだ。いいな、と思った。素直に好かれることのできるのは
 自身も素直でいられるからだ。いつでも相手をきちんと受け止める。だか 
 ら自分も彼が好きで、頼りにしてて、8時間歩いても会いたかったのだ。
 終了の時刻になって「お大事にな」と手を振ると「ありがとな」と十也は
 にっこり笑った。世話に来ていた十也の母親が近くの駅まで車で送ってく
 れた。電車賃がなく、歩いて帰るとは言えないので、乗せてもらった。
 駅に到着すると「十也があなたにお金を借りてたから、代わりに返して
 おいてくれって」と母親が二千円渡してきた。彼に金など貸していない。
 何も言ってないのに、ここまで歩いてきたと十也は察していたのだ。
 受け取った二千円で電車で帰った。嬉しいよりも、どこかが痛かった。
 少し沈んだ格好でシートに座りながら、イヤホンで音楽を流しつつ、
 バイト情報サイトを見ていた。なんとしてもこの金だけは返したかった。
 だが途中で着信が届いた。いつも行くパチンコ店からのお知らせで、
 新台入荷で明日からポイントが2倍になるというものだった。人気の台で
 竜太郎がいつも打ってる人気機種。気がつけばその台の動画を見ていた。
 いいな。行きてえな。そう思った時だった。
 イヤホンからの曲が止まった直後、突然車内からワッと拍手が聞こえた。
 え、なに?竜太郎が顔を上げると、同じ車両の二つ離れたシートの前で 
 黒いスーツの中年男性がこちらに向かって頭を下げていて、自分以外の
 乗客ら全員が彼に拍手をしているのだった。全体が妙に和やかな空気にな
 っていて、みな楽しげに微笑み、中には泣いてる者もいた。
 なんだ?なにがあった?
 竜太郎は耳からイヤホンを外した。キョロキョロと周りを見回したが、
 もうなんらかのひとときは終わっていた。
   あのおっさん何したの?
 疑問だけを残しつつ、駅に到着していた。気になってしょうがないのに
 誰にも聞けない。電車。おじさん。で検索を掛けたが、ツイートしてる
 者はいなかった。
 なんだろう。悶々としながら改札を抜けた。暗くなった駅前広場を歩き出
 すと「すいません」と後ろから声がした。振り向くと大きい紙袋を持った
 おばさんがいた。
 「これ、落としましたよ」
 差し出したのはイヤホンの片っぽだった。外した後にポケットにしまった
 のが落ちてしまったらしい。
「あ、どうも…すみません」
 竜太郎は小さく頭を下げてイヤホンを掴んだ。そういえばこの人、さっき
 同じ車両にいた気がする。何があったのか聞いてみようか…。迷ってる間
 に、おばさんは竜太郎から離れて行ってしまった。
 自分はどこにも属してないんだな。細い歩道を歩きながら強く感じた。
 仕事もなく、友人もおらず、家族とも疎遠。その場にいたのに、みんなが
 目撃した出来事すら見はぐった。世間にも参加してないからだ。
 手に持ったイヤホンを握りしめた。これが自分自身だと思った。
 いつも人の話を聞かない。だからひとりぼっちになった。
 自分の理屈ばかり通そうとするから同じ失敗を繰り返してる。全部の結果
 が出てるのになぜしがみついてるのか。
 帰ったらバイト先から来ていた手紙を探そう。ちゃんと送り返してから
 新しい仕事を見つけよう。今度こそ、自分から逃げない。
 通り道にある大きい公園で、ストリートミュージシャンがギターの弾き語
 りをしていた。知らない歌。けど竜太郎は立ち止まって耳を傾けていた。
  
  さあさ みんな聞いとくれ
  今の世の中に飽きたらず
  恵まれたうちを飛び出した
  プータローが増えている
  なんにも苦労はないくせに
  このまま死ぬのも嫌だとか
  理想は高くて夢を追う
  プータローが増えている Oh Yeah 
     ヤワな体で 何ができる
  強くなろう もうウジウジするな
  もらえるものは何もかも
  ポケットの中にねじ込んで
  自分ひとりが味方だぜ
  楽しくやらんかい
 
 変な歌。思いながらも口ずさんでいた。不思議に勇気付けられていた。
 そうだ。いつでも自分にBET して、勝って行けばいいんだ。
 真のギャンブラーはギリギリこそを楽しむもんだ。
 竜太郎は手の中のイヤホンをジーンズのポケットにぐいと押し込むと
 久々のビールと夕飯を買いに、横断歩道を渡ってコンビニへと向かった。
 
 

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 長い時間お読みくださった方 ありがとうございます。
 荒い文章ですいません。ほんとに乱雑で申し訳ないです。
 でもひとつに設定にひとつの目的があると書きやすいですね。
 とはいえストーリーではなくキャラクターをひたすら掘り下げるのは
 なかなか大変で、思っていたより長くなってしまいました。
 本当はあと4つ書きたかったのですが、さすがに多いなと止めました。
 最後に上記の全員がある場所に集まる…という設定で
 締めたかったのですが、やり過ぎかなと思い、ここまでに。 
 あくまで人様のエピソードに便乗させて頂いたものですが
 面白いと思って読んでもらえたら幸いです。🤗
 以上「電車の中」でした。


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