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「見えない力」を哲学する#0 プロローグ的なもの

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 17世紀のデカルト主義以降、われわれはあまりにも近代合理主義的、科学主義的な思考、価値概念に慣らされすぎてしまっている。

 これによって見失われている、あるいは嘲笑されているものが非合理的な思考、すなわち、神的なもの霊的なもの魔術的なもの信仰的なものであるというように見受けられる。

 だが、科学的、論理的に説明できないからというだけで、非合理的なもの、あるいは、近代以前の人間の知(たとえば神話や宗教、迷信、幽霊的なものなど)を嘲笑するものは、その非合理的なものに、足元をすくわれることであろう。

 たとえば、その最たる例が、貨幣(現代ならマネーと呼んだほうがよいか)ではないだろうか。

 われわれを取り巻く資本主義経済。貨幣無しにわれわれは生活をすることも、未来の見通しを立てることもできない。一見、極めて合理的なシステムのように思える資本主義経済も、じつは「貨幣」という、捉えどころのないものによって成立している。

 マルクスが、指摘していたのはこの貨幣がおのずと持ってしまう、あまりにも不可思議で、非合理的な「力」であった。

 われわれは、この貨幣という、一見それ自体では何の価値がないものに対し、絶対的な価値を見出している。そして、その価値の高低を左右するのは、「信用」という、きわめて人情的なもの、合理性とは程遠いものによって支えられているのである。

 そして、われわれが貨幣なしには生きれないと、貨幣にすがってしまうのは、まさにこの貨幣への信仰のメカニズムが、全世界的に及んだ絶対的なものであるからなのだ。

 この盲目的、無条件的なまでの、「歴史的な」貨幣への信仰は、一体どこからくるのであろうか? 

 経済学者や経済評論家は、この貨幣経済の世界的な動向や、現象、法則のようなものには明るいが、信仰のメカニズムは明らかにしないであろう。貨幣というものが、人間にとっての水や空気同様に、説明不要な「大前提」となってしまっているからである。

 だが、結局、この貨幣に、資本主義経済に、われわれは足元をすくわれる。すくわれるどころか、暴力的なまでの不平等や破壊、混乱にさえ陥る。だからこそ、マルクスは今なお復権し、読み直されているのである。

 もう一点、われわれ日本人は、よく「無宗教」だと言わている。だから、近代の合理主義はわかるが、西洋、ユダヤ、イスラムに見られるような一神教への信仰心、宗教思想はよくわからない、という意見が見受けられる。

 私自身も、つい最近までそう考えていた。

 だが、よくよく考えてみると、われわれは無宗教といっているわりに、受験や就職、家を建てる時、あるいはスポーツの大会でも何でもよい。合格や勝利といった、大事なものがかかった時ほど、「神頼み」をしているのではないだろうか。あるいは、体の調子が悪い、仕事や事業、人間関係がうまくいかない、といったときは、運が悪い、ツキがない、だから「お祓い」にいこうとなる。

 これらに限らず、正月の行事であるとか、盆の墓参りとか、喪に服すとか、古来からの行事や習慣を大切にする。もっと身近なところでいけば、蜘蛛は親類の生まれ変わりだから殺してはいけない、蛇は祟りがあるから傷つけたり殺してはいけない、といった迷信の類だ。この迷信、じつにあなどれない。大人になっても、なぜかずっと信じてしまっている、というのはリアリティとしてあるのではないだろうか。

 これらは、日本の伝統的な宗教、信仰心から来るものに他ならない。ただし日本の場合は、神道と仏教が複雑に織り交じって、今のような形となっている。にもかかわらず、日本人は無宗教であると考えるのは自由だが、われわれは無意識の宗教、信仰心を、日常において体現し、かつ「依存」しているのである。

 若い人はこういうかもしれない。そんなもの、いざとなったら信じないよ。本気で信じてなんかいやしない。けど、「習慣」にあわせてそうしているだけ、と。

 しかし、その信じていないものを、信じているかのように、なぜか行動してしまっている「原理」に、私は、貨幣同様の、不可思議な「力」を見出す。

 このあたりは、私自身も、『逆説の日本史』で著名な井沢元彦氏の著作などからにより、改めて気付かされたことではあるのだが、井沢元彦氏は、上記のようなことだけでなく、日本人に見られる「ケガレ思想」「怨霊信仰」「和の精神」というものも、無意識の信仰心の例として挙げている。

 例えば、日本人は、個人の主張よりも「和」を重んじるというのが、聖徳太子以来に植え付けられた思想である。その「和」の精神は、決めることができない政治の場でもそうだし、会社の経営陣の会議においてもそう、他者の賛同無しに誰も何も決められない、「無責任の構造」は、誰もが実感することであろう。

 あるいは、コロナ渦やSNS時代になって、はっきりとわかったことだが、われわれ日本人が、日常で持ってしまう、受けてしまう「同調圧力」もまさに、その「和」の精神の、変形・異形といえそうだ。

 このように、われわれは、どれだけ世界が科学的知見を有し、人間の生活を一変させてしまうほどの優れたテクノロジーを発明し、文明や生活の進歩、人類知性の進化を実現させたとしても、じつは無意識レベルにおいて隠されてしまっている、もっとも根源的なところ、根本的な関係性の力学においては、何もわかっていない、あるいは、わかったような気になってスルーしてしまっているのではないか、ということは指摘できると思う。

 仮に理解できていたとしても、そこに無自覚なまでに「依存」してはいまいか? というのが、私の関心、問いの出発点である。

 私は個人的には、西洋で発展してきた哲学、科学、あるいは数学という知は、ひじょうに関心の高い領域である。しかし、その学問の本来の目的や姿とは別に、社会にいつのまにか浸透してしまっている、近代的な合理主義、科学絶対主義の価値観でいけるかというと、多くの識者が示しているように、やはりそこには疑問符をつけざるをえない。

 私の知の関心は、「数」や「量」、あるいは「形式」や「論理」で説明できる知ではない。世界における、他者と他者の関係性、その構造。なおかつ、構造の中にあるわれわれの行動のメカニズム。信仰、本能、衝動、無意識、なんと呼んでもよいが、そのメカニズムを動かす「力」=「力学」にこそ、関心がある。

 この力は、もはや「見えない力」といってよいほどに、われわれの無意識レベル、あるいは抑圧されたものの中にあるといえるのではないだろうか。

 盲目的に見えなくなってしまっているだけかもしれない――この「見えない力」こそ、私は思考の対象としていきたい。

 本記事を書くにあたって、大いに参照になるであろう識者は、やはりスピノザである。スピノザは、デカルトと異なり、人間と世界の関係性を、まったく別次元で捉え、考えていた。それゆえに、デカルト主義という進歩的な知識人からも、宗教権力からも総攻撃を受け、あるいは黙殺されてきたという歴史があるのだが、現代、マルクスの復権同様に、スピノザがひそかな流行になっているのも、近代合理主義的な知では、もう限界、やっていけないだろうということが、さまざまなフェーズのさまざまなプレイヤーの認識によって出始めてきているからであろう。

 私は、「見えない力を哲学する」と題して、本連載を開始したいと思う。この連載は不定期で、気分によって書きたいテーマを選んでいくという形にしたい。はっきりとした見通しはなく、なかばフライング気味に、勝手にかっこつけて(笑)連載を宣言しているだけなので、途中で頓挫してしまうかもしれない。

 私は、学者でも研究者でもなんでもないので、私がここで書くのは、たんに私の雑感、所感的なものである。なので、エッセイ的なものとして受け止めて頂きたい。あるいは、ただ有識者の著作の引用、紹介、そのまとめに終わってしまうこともあるかもしれない。

 しかし、私はこの連載記事を書くことをきっかけに、そのテーマにふさわしい本を読み、私自身がこれまで関心のあった領域の勉強、思考を可視化しするということを、自身の課題として試みたいと思う。

 まだなんともいえないが、本記事を書くにあたって対象となる識者は、上記のスピノザやマルクスに加え、フロイトや、ニーチェ、ハイデガー、フッサール、バタイユなどになってくる(であろう)。他にも、網野善彦や梅原猛といった歴史学、文学や宗教といった領域における識者も参照にすると思う。

 扱うテーマは、「お金の力」「言葉の力」「自然の力」「表現の力」「物語の力」「噂の力」「視線の力」「他者の力」「死者の力」「家、親子という力」「感情的な力」「存在そのものの力」「支配-被支配の力学」「生きようとする力」とか、ざっと思いつきだが、そんなことを書きたいとぼんやりと思っている。


 今回の記事を書くにあたって、インスピレーションを受けたのは、やはり学生時代の頃から読んできた柄谷行人による以下の著作である。

 
 これまで柄谷行人は、「交換」という概念をベースに、「資本」-「国家」-「ネーション」という世界構造を、その構造化たらしめるメカニズムについての思索を深めてきた。その徹底した「形式化」「構造化」の先に、柄谷行人が改めて注目したのが、交換様式から生まれる「力」の概念である。

 朝日新聞「じんぶん堂」でのインタビューから抜粋しよう。

「・・・・・今度の本で注目したのは、交換様式が観念的な力をもたらすということです。それが顕著なのは交換様式Dです。それは、観念的なあるいは霊的な問題、つまり宗教的な次元にみえます。だから、だから他の交換様式とは違う、ということになる。しかし、どの交換様式も霊的な力をもつのです。ただA・B・Cの場合は、その力が霊的なものとは見なされない。私はそれらがもつ霊的な力について考えた」

〈霊的〉というと科学的でないという反論が浮かぶ。しかし、柄谷さんは、「磁力も17世紀半ばまでは実在の力とは見なされなかった」と指摘し、「科学的な態度とは、たんに霊を斥けるのではなく、霊として見られるほかないような『力』の存在を承認した上で、その謎を解明すること」だと説く。

https://book.asahi.com/jinbun/article/14748689  より

 
 かつて、言論空間でのカリスマ批評家であった柄谷行人も、いまや82歳である。だが、その思索と著作は、今なお、「力」にみなぎっている。

『世界史の構造』を書き、「霊的なもの」を口にしだしたあたりから、柄谷が誇大妄想に走っている、大丈夫か?、という冷ややかな意見も聞こえたりはするのだが、しかし柄谷行人が示した、交換における「霊的な力」はきわめて重要な概念だと思っている。

 上述したように、科学的、論理的に説明できないからというだけで、非合理的なものだと嘲笑するものは、その非合理的なものに足元をすくわれるのである。私自身もそれを肝に銘じ、この「見えない力」についての考察をしていきたい。

 最後にもう一点、やはり柄谷行人からの文章だが、本連載を開始するにあたって、重要な考えとなるものを紹介しておきたい。

さまざまな点で、イオニア派の思想は今も活力をもっている。先にも指摘したように、質料と運動を分離しないイオニア派の考えは「魔術的」なものだと見なされる。実際、近代のフィジックス(物理学)はそれらを分離することによって成り立っている。しかし、このような分離はデカルトが示したように、「神」あるいは神のような視点を前提している。つまり、その点で、アリストテレス的メタフィジックス=神学を受け継いでいる。このような観点を決定的に粉砕したのが量子力学であった。量子力学は、ある意味で、質料と運動は不可分離だというイオニア派の考えを回復したのである。すなわち、量子(光や電子のような微粒子)は、粒子(質料)であると同時に波動(運動)である。

『哲学の起源』柄谷行人著(岩波書店)より


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