人間の隷従、あるいはお金の力について『黄色い家(川上未映子著)』感想


川上未映子さんの話題の小説、『黄色い家』読了。圧倒された。かつてここまで「お金」を主題にした小説はあっただろうか。いや、厳密には「人間の隷従あるいはお金の力について」を主題にした小説であり、なおかつ人はその中で、自分の人生が自由であったと肯定できるのか、ということが問われるのである。

『黄色い家』は、表向きの設定にみられるような、たんなるノワール小説ではない。この小説が描いているのは「お金」と「家」という幻想であり、しかし、それらを単なる幻想としては片付けることができない、人間の心身をどこまでも物質的に支配してくる「リアル」である。

そしてそのリアルを支えるのが、意識的であれ無意識的であれ、それらを信じる人間の信仰だ。柄谷行人がマルクスを援用して指摘するように、お金はそれ自体にお金としての価値があるわけでは決してない。いうまでもなく、お金など、人間以外の生命体にとってはまるで無価値、無意味である。しかしそのお金が価値となり、意味を持ってこの世界で流通するのは、それに価値があると人間の誰もが考え、その価値が持つ力を信じて疑わないからだ。これらは、刷り込みのレベルで、われわれにとっての大前提である。

お金を信じる構造とは、まさに宗教と同じである。あるいは、家族、国家という概念も同様である。したがってこの小説は、宗教や国家というものが何であるかを示唆する小説でもあり、私達が生きるうえで、無意識的に前提としている価値観がいかに、もろく、しかしそのもろさを強固なリアルにしているものが、それに隷従的なまでに信じるわれわれの信仰的な態度、習慣に他ならないということを示してくれる。

この人間の信じてしまう力はどこからくるのか。それがわからないから、これらの観念が持つ「力」というものは恐ろしい。柄谷行人が『力と交換様式』で言っていた「霊的なもの」としか呼びようがない何かである。試しに、本作品の「お金」と「家」を、「神」「国家」と置き換えても、この小説は別の形にはなるものの、成立することであろう。それくらいわれわれの世界の構造の根本的な原理に迫った小説であるといえる。しかしこの小説のすごさは、そのような人間を雁字搦めにしている世界の構造の中で、なおかつ人は自分の人生が、自由であったと肯定できるのかまでをも問うてくるのである。

主人公の花は、救いをお金と家に求めてきたといえる。あるいは自分以外の誰かである他者に。だが、誰も何もどこにも救いはないとわかった時に、彼女は坂口安吾が言うところの「救いがないことが救い」「モラルがないことがモラル」という「文学のふるさと」に到達してもいるのだ。

ちなみに登場人物の一人、桃子がカラオケで歌うのが、なぜ「X JAPAN」なのかも示唆的である。90年代の象徴は、間違いなく浜崎あゆみや安室奈美恵のはずなのに、あえてX JAPANを選んでいるところが、本作品の主題に通じていることがわかる。

X JAPANと並べて、モーセ、キリストの名を花に想起させていることからも、作者はこれを意図して選択していると思われる。90年代はなんというか、日本の浮かれた熱っぽさ、根拠のない熱狂のようなものが確かにあった。だが、それは2001年9月の世界的事件により打ち砕かれるのである。

その時の私は23歳であり、作者とほぼ同年代だ。就職氷河期と呼ばれ、それまであった日本の終身雇用的、家族的価値観も溶解しつつある時代に突入したと記憶している。『黄色い家』はまさしくそのような90年代の雰囲気を描いており、この小説の時間軸が90年代であることには作者の意図と必然性がある。

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