新潮新人賞受賞作品『狭間の者たちへ』を読んでみた~「狭間」における病理~

新潮新人賞受賞作家の中西智佐乃さん『狭間の者たちへ』を読んだ。凄い力量を持った新人作家の作品は久しぶりだ。そこに書かれているのは紛れもなくわれわれの「リアル」である。

新人賞を受賞した作品は、同録の『尾を喰う蛇』の方だが、いずれの作品においてもテーマは一貫している。

この方の提示がユニークなのは、今の日本社会において、「強者」と「弱者」あるいは「勝ち組」と「負け組」といったような格差を生み出してしまう構造において、じつは弱者とみなされる人間の方にも甘えのようなものがあり、その立場を盾に、強者のように振る舞ってはいまいか? という視点である。むろん、それは著者のメインの主張というわけではなく、主人公の視点を通しての問題提起である。

仮にその見方が正しかったとしても、弱者に悪意があるわけではない。そのような強者とか弱者というレッテルや状況を作っているのは、あくまでこの「社会」であり、もし実際に弱者が強権的な態度を振舞っているように見えてしまうのだとすれば、それを強いているのは、その構造そのものなのである。

一方で、強者にも弱者にもなれない「狭間の者たち」がいるのではないか。この作品の主人公である藤原はまさにそのような狭間にいる者である。

藤原はショッピングモールの保険営業所に勤める、40歳の妻子持ち既婚男性である。成績はぱっとしないし、営業所の現場は人手不足が常態化しており、部下たちとのコミュニケーションもうまくいっていない。働き詰めで疲労困憊で家に帰宅するも、育児ノイローゼ気味で八つ当たりするしてくる妻がいる。

藤原には、まさしく自分の妻こそが、弱者である立場を利用して支配者たろうとしているかのように映っている。妻は夫の藤原に対して、強者の方になることを強いる。すなわち、「もっと稼げ、私が働かなくてもすむくらいの生活費を稼げ」「金がないならせめて子宝には恵まれたい。二人目を作ろう、セックスをしろ」的なプレッシャーである。

狭間にいる者は、強者になることを要求され、弱者から突き上げられる。主人公の藤原には少なくともそのような心理状態になっているのではないか。

だが、藤原にはそんな強者や弱者という構造自体に関心がない。その関心の無さは、自分の理想、空想へと逃げ込むことに現れている。

その現われは、朝の通勤電車で同じ車両に居合わせる女子高校生の存在に、歪んだ形となって向けられる。藤原はその女子高生を「彼女」と呼び、彼女の近くに立つことで、彼女の匂いを嗅いだり、電車の揺れで体が触れあうことに喜びを求め、彼女に「元気をもらっている」と理由をつけ、そのような行為を、ほとんどストーカー的に繰り返す。

一方で、藤原には「あーちゃん」といって懇意にしている風俗嬢がいて、後背位で彼女とセックスをすることで「強者」としての振舞いに浸っている。妻の存在を差し置いて、あーちゃんの体に初めて触れたことが、人生最大の喜びとさえ回想している。

一方には無垢な女子高生、一方には風俗嬢。その双方への愛着、執着。ここに、主人公藤原の捻じれがあるように見受けられるが、藤原にとっては前者はプラトニックな欲望で、後者がリアルな欲望ということだろうか。

しかし、このバーチャルとリアルの欲望を同時に持ってしまうことで、捻れが生じてしまい、超えてはいけない境界を踏み越えてしまおうとする。
これもまた、「狭間」における葛藤である。

物語はここからさまざまな展開をしていくのだが、「彼女」という理想を追い求めるあまりに、藤原は次第に袋小路になっていく。

救いがない。救いがないから、読んでいて苦しい。辛い。もはやそこでは、僅かな「希望」さえ描かれることはない。

強者と弱者、職場と家族、バーチャルとリアル、さまざまな構造の狭間で追い詰められる主人公は、最後にこう叫ぶ他ない。

「違う」「元気がもらいたいだけ」と。

しかし、他者に「元気」をもらうことも、境界を踏み外せば「狂気」になってしまうだろう(人にはそう見えてしまう)。

その袋小路を強いてしまうのは、この複雑な社会構造がもたらす、病理ではないのか。その犠牲者が、主人公藤原だった、ということである。

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