教育における主体性の正体 #8 子どもの主体性への意識づけ

 だいぶこの話が長くなりそうなので、前段に結論への意図を書いておきます。自分が行き先を見失いそうですから。 
 現時点の学校教育で明確に評価の対象となっている主体性は現状の「やる気」という見方でよいのか?
 そして主体性を高めることが学習効果と成員平等に連動するためにはどうなる必要があるのか?という2つの視点から突き詰めてみようということです。というわけで、

主体性を強める教師の権力性の運用

 教育には段階があり、段階を踏むことが教育の基本姿勢であることがまず重要です。小学校低学年段階にはその段階なりの取り組みがあり、その受け取りがあるわけです。これを抜きにして中学生や高校生が存在することはできません。
 その上で教育が主体性を段階的に意識していくことに資するためには、それなりの仕掛けが必要になることはこれまで述べてきたとおりです。
 と同時に教師は権力の主体であるという自覚と運用に関する留意を持ってクラスルーム(集団)経営を行う必要があるということです。学習集団の成員としての最低限のマナーと技能はそうした権力を基底にして身につく部分が少なからずあるからです。
  学習に真摯に向き合うことは不可欠ですので不真面目な態度はもってのほかです。そして他者への妨害はご法度なので他者との共有と他者への寛容の精神は持ち合わせる努力が必要です。そうしたトライアル アンド エラーの場を意図的につくらなければなりません。
 これらは権力の回避というよりは学習規律の部分ですが、同時に権力性の発揮の重要な成果です。
 主体性発揮の場という側面と権力による学習規律に守られる場という側面であることは同じものを見方によって違うものとしての性質を持つことなのだということです。量子理論で光が波でもあり粒子でもある状態に非常に近いハナシです。
 これによると意図的に主体性が発揮される場合といつも通り主体性が発揮されてしまった場合とは同じ見え方であるし成果でもあるが、教育の道筋としては全く違う分析になってしまうのだろうと思います。
 なぜなら自然科学ですら、波であり粒であるということを説明できるモデルを創ることはできていないからです。
 
 こうしたことから、結果主体性が授業の成果として権力者もしくは場の設定者の意図に沿って発動された場合にのみ、教育(日本型学校教育)的に意味を見出せることになるのではないかと思います。
 というのが一つ目の疑問「主体性は現状のやる気という見方でよいのか?」に対する私のアンサーになります。場としての授業の成果ではない主体性というのもあるとは思いますが、それは教育の成果として見ることができない以上授業の評価対象にはならないということです。しかしそれはその個人にとって非常に有用な人生の学びになる可能性は大きく残っています。それを否定するものではありません。しかし周りの子どもにとって、集団にとってその主体性はあまり好ましい成果にならないことの方が多いであろうことは疑いないです。
 となれば堂々巡りのようですが、主体性の発揮は権力者もしくは権力そのものへの接近、離脱、否定、ズレ、平衡といった距離感の変化や均衡の中にその発露を見ることができるということです。
 となると「主体的に学習に取り組む態度」という観点自体が非常に問題のある日本語になってしまいます。この文言は主体性を見ているのか態度を見ているのかがよくわからない日本語だからです。
 私の組み立てでは主体性を見ています。それを突き詰めて考えた今なら、この文言は態度を見るしかないことを諦めているように読めなくもありません。態度が悪いという指導は基本的に一方的な思い込みに基づいたパワハラ思考の指導に用いられるものです。にもかかわらず今のご時世、この観点は昭和の教育を引きずる私でも若干の違和感を持って受け入れざるを得ません。嫌いじゃないんですけどね・・・

 そういう意味では主体性というモノサシを態度という個人の性格や持ち味に依拠した尺度にしてしまうことはやはり違和感しかありません。堂々と主観を前提にするならやはり授業の中での意図からの距離の取り方、それも個人のパーソナリティの現時点での評価から見ての伸びしろの部分を教師が責任を持った主観として良い悪いぬきにしていてあげることが非常に良いのではないかという結論です。
 昨日はやる気があった。けど今日は今ひとつだった。みたいな見方は今後の成長発達においては何の役にも立ちません。それだったら九九の2の段ができるかできないかの方が役に立つ評価です。評価として次の学習に向けての準備としても、大人になる上での技能としても。
 しかし主体性が技能として、方法として、人間関係の財産として、ものの見方や考え方として使えるように意図するためにはこの手法で設計してマインドセットとして経営哲学として子どもに意識させる方が良い。
 これは一つ目の答えであると同時に二つ目も「主体性を高めることが学習効果と成員平等に連動するためにはどうなる必要があるのか?」のアンサーでもあるように思えます。主体性へのコミットが気分的に盛り上がった子どもだけへの学習効果になるのではなく、どの子にもトライアンドエラーの産物によるマインドセットの獲得につながる方が好ましいことであることは間違いないからです。
 
 あいも変わらず長くなりすぎて良くない感じになってしまいましたが、個人的にはまた深まってきました。そういうのが長い文章を書いてしまった時の変わらぬ感想です。

 主体性はそんな簡単な概念ではありません。コントロールもそんなに簡単ではないです。主体性をきちんとコントロールして結果を言語化することができている人を見たことがない。思考実験は終わったので実際に実践してみようと思います。

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