プラットフォーマーとしての行政の援護射撃

 いつになったら二分の一成人式が良いか悪いか的な話が終わるのだろう?
 どっちでも良いじゃん?そもそも話題にのぼらせること自体が二分の一成人式の存在価値を周知してしまうんじゃないのと思ってしまう。

 これは成人式にしたって同じこと。そろそろ一律のイニシエーションから脱却した方がよくないかな?
 
 問題は定式的な一律。タダのカタチであり、抜け殻。他人と一緒が安心材料であること自体がそもそもおかしい。それより社会的意義や自分のありようを考える方がどの方向にとっても有益。そしてその他者感覚を尊重する姿勢を持ってかつ批判を展開するなら多分きちんとした対話になるハズだと思うんだけど。
 
 そしてイニシエーション。多分1990年ごろ一度イニシエーションとは何かみたいなのが流行った時期が一瞬あったような気がする。知の技法だったか、ポストモダンだったか忘れたけど通過儀礼に価値を見出すかどうか話だったような気がする。
 もちろん未開の地の民族がバンジージャンプのような通過儀礼を持って成人とみなすという手法を取るのは、社会を安定的に運営する上でとても考えられた伝統であることはよくわかる。教育抜きで獲物の分配や家族を築いて子孫を残す家族経営をきちんとやっていくためにはそうした決意表明や周りからの尊敬を含めた承認が必要なのであろう。

 しかし、日本には教育がある。そうした儀式的な形ではなく、もう少し実利に基づく高度な知識社会参入への窓口を整備していくことでの通過地点を作っていくことはできないのだろうか?
 そういう意味での博士課程というのはとても良い窓口だとは思う。高校進学率が98%を越え、大学進学率は50%を越えようかという社会においてはこれらは実質的に通過儀礼的な意味を持てなくなっている。
 しかもこれらは明確に個別のブランディングをなされてしまっているため同じ大卒でも全く違う目線に、しかも実際の能力とは剥離のある形でさらされてしまう。これでは何重の意味でもイニシエーションにならない。

 であるならは、シャアのように博士課程三倍増を目指すときの建て付けは少し工夫が必要になる。
 まずは権益やカネの話から一旦離れる。施設は近隣の大学を使っても、所属はしない。博士号は国家資格にしてとにかく労働規律や倫理、道徳についての研究を必須にする。そのうえで専門分野に特化した研究を言語化していくことに注力させるのである。その評価にはAIを使い特に優秀とおぼしきものを選別したうえでさらに研究を深めていくチームを組ませる。

 そのためのプラットホームを作ることに1000億程度のカネをつかうことは今の無駄な大学教員を雇うことに比べればチリにみたいもんである。このプラットホームは評価だけでなく学術の業績化や特許化の機能も備えており、お互いの研究をマッチングして企業が出資して院生の研究業績をマネタイズの上商品化する機能も備えている。博士課程がOJTと就活になるのである。これは大学院生がかかえる業績と金と就職先の問題を低コストで永続的に解決できる方法である。もちろん大学側や大学教員側にとってはいささか具合の悪い問題を含んでいるので多分実現はしない。
 しかしこの方法は労働力不足に悩む業種にとっては下からのマネタイズによる労働形態の変革に大きく貢献すると思うんだが、、

 話を元に戻せば、二分の一成人式における一般人が考える程度の配慮はほぼほぼ全ての教員がすでにしている。是非を何度も問うた上で実施するかしないかの判断をしている。一般人がヤフコメするような浅い判断は必要ない。重要なのはやるやらないの判断への評価ではなく、すべてをひっくるめた公教育の建て付けへの是非に対する多くの意見表明だと思う。
 そこに有益なアイデアがあり、またマンパワーが寄り集まってくるなら、鎌倉市の3Mのようなステキな実践が自然発生的に公教育を取り囲んでしまうプラットホームになってしまうと思う。くだらない見せかけのための一時しのぎにお金を遣うくらいなら、またボランティア搾取のような民生委員や保護司のようなシステムに頼るのなら、行政がイニシアチブをとって責任もとって市民のためのプラットホームづくりをやればよいと思う。
 今の行政システムはマンパワーも予算もアイデアも無駄遣いしている。 という話になりました。なんか昨日書いたnoteと意図せず連動してしまった。別にフォローするつもりはなかったのに。

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