既存の学習をICTに置き換える
ICTの取り組みはヒトを幸せにはしない。
ICT好きには衝撃のヒトコトかもしれない。
かくいう私もICT大好き人間を自称しています。
しかし情報教育から始まって以来、一人1台タブレットというおそらく夢のような予算措置が降って沸いたにも関わらず、結局ICTは学習を変革するに至らないのは、そして全く思ってもみないような的外れな実践が作っては打ち捨てられているのはいくつか理由があるのだろうと思っている。
その一端がセイマーモデルの置き換えるだと考えます。
二度手間という言葉を体現するにふさわしい活動に「置き換える」という発想があるということです。
記録すると置き換えるは違います。これまでの教育活動においても活動をビデオなどで記録して後程見返すということはありました。それとは違います。記録は映像だけにとどまりません。紙に書いて記録していたものをICTでの取り組みに記録することも同様です。これは実はよくやる行為です。便利かどうかはさておいて記録先としてのICTの取り組みは校務などでもよく行われています。
では置き換える作業というのはどういうことかというと事前の手順の段階で記録先だけでなく一手間加えることになることです。集計できるようにするための一手間とか一覧性のための一手間とかです。
授業の場合も話し合いにICTを使って行う場合も置き換えが行われたりすることがあります。ただの記録ではなく、さりとてそれ以外の方法があるにも関わらず、選択される場合にはそこに一手間加わることになります。例えば遠隔地との話し合いというのは基本的に必要ない行為であるにも関わらず採用されている点で一手間になります。これが大人の必要な出張とは違います。もちろん大人の出張も必要であるかどうか大いに疑問である場合もあるのですが。
こうした置き換えるという行為は実は学習行為上は何の役にも立っていません。誰かが言ったように「理屈とセロテープは何にでもくっつく」という理論からいけば、実践を好意的に評価することは少しも難しいことではないので嘘褒めすることはいくらでもできます。というか教育実践現場では何のエビデンスも裏付けもなく賞賛されていることはあるあるです。
置き換えるという行為はICTの研究者の間では、自分たちの領分を広げるための援軍として意味もなく称賛されている対象として採用されています。
その一手間のために費やされる労力を考えるととてもじゃないがWin-Winの関係などということはできません。それは自己満足の世界になってしまいます。その上それが再利用不可能という壁にぶち当たってしまうことが教育現場においてはしばしばということになってしまうことがより問題を困難にしていきます。昨今の教員による個人情報の流出ざんまいの状況は情報セキュリティ以前の問題だからです。実際問題何が漏れてダメで何ならOKであるかは定められていません。というか正確に言えば定められてはいるもののその定められている文言が何を指していて何を指していないのかがはっきりしない状況になっている場合がほとんどであるということになります。こうした設定の仕方は結局全てのデータが秘匿性を持って扱われるデータという非常に扱いづらい存在に自らで追いやっている状況であるということです。さらにここに著作権侵害や個人情報保護、守秘義務の問題がのしかかってくることになります。絶望的です。
これらはICTを進める上での障害ではあることはもちろん、置き換えを明確に否定するに足る状況であることを指しています。せっかくの一手間が事後何の役にも立たないことを正当化してしまうからです。
手間がかかる上に、手間に意味がない。最悪です。
しかもこの手間を意味なくすることを回避しようとする取り組みが行われようとする場合に指数関数的に手間の量がさらに増大することになります。これが現場でいうところの二度手間なんでしょう。
置き換えるという行為をICT実践として認定することは学校教育における実践に手間を増やし、学校を疲弊させるだけの取り組みであることを暴露することをお勧めしますということ。
これまでの情報教育以降間違えだらけの思い込み実践がただの落書きのように量産され、業績として誤認され教育工学の大学教員を大量発生させてきたことに対する反省をここでしなければならない。
その第一歩として明言しておきます。
置き換えは教育実践の手法ではない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?