クラス経営でモラルを評価して任せる仕事の重要度割り当てや問題行動への対応に活かすこと

 評価キジュンについてはいつでも困難が伴っている。
 何年やっても現場でむずかしいなあと思っていること。
 大学教員の言葉あそびにつきあわなければならないのは大変疲れる。多分悪気なく遊んでおられるのだろうけれども、すげえ迷惑です。

 ロジカルなつもりなんでしょうけど、つくられたルーブリックなどの方法や三観点などの評価の観点はとてもじゃないが現場での保護者のいちゃもんに耐えられる代物ではありません。なんで論理破綻した代物について現場が文句を言われなきゃイカンのでしょう。

 何度も言うけど、公立学校教員がブラックなのはカネの問題ではなく無能な人間の無価値な建て付けに対する国民の鬱憤をぶつけられるポジションに教員が無防備な形で捨て置かれていることにみんなが気づいちゃったからです。

 公立学校は無価値な教員養成大学の無能な教員が無意味な論証や無駄な政策提言をしなくなればずいぶんスッキリするはずです。もちろん保護者や政治家もです。「だからあれほどいったのに」の中でも内田樹さんは子どもを外傷的経験になるリスクに最大限配慮する教師と全く考えない教育行政に関わる人間との差異を指摘されています。ここまでは内田樹さんに同意します。そしてその差異についてイライラを募らせているのはウデのある教師であること付け加えさせていただきたいと思うし、なぜ職業上専門性と判断力が問われる職種の方がほとんど問われない指導主事や文科官僚よりも格段に給与が低くなるのかが理解できません。
 ただ外的な無駄が排除されるあかつきには、教員の方にも教員自身によるドラスティックなチェック機能が必要にもなってくるでしょうが。 

 評価の話にもどれば、実は教員は毎日かなりクラスの子どもの評価をしっかり行っているし、その評価内容をしっかり伝えているのです。
 それが表題にある子どもの個別のモラルを評価して学級指導に活かしている状況です。
 小学校のクラス担任は、学級が始まって半月ほどの今現在において、すでに子どもにどれほどの信頼感がおけるかどうかを個別に判断しています。私もしていますし、周りの担任もしています。なぜわかるか?職員室にいれば個人名を持って会話がなされているのがイヤでも聞こえてくるからです。もちろん情報共有としてのパブリックなものも多くありますし、私的な相談の部類もあります。職員室が嫌いでほとんど居ないようにしている私に聞こえてくる量の何倍もの開示が行われているはずです。これは間違いなく子どもの評価です。
 それも診断的評価でもあり、形成的評価でもあり、総括的な評価でもあります。このブルームによる分類の仕方は単元学習を習得することを目的にして便宜上知識習得過程を時間軸で切り分けた点の評価のことにすぎません。もちろんアップデートが施されていますが、評価自体の優位というのは全くありません。だから教師が子どもを個々にその時点で評価することは学習の単元だけに切り分けられているという都合のいい場合だけではありませんので、着地点が決まっていない・未来が意図できていない場合には全ての側面を持ったチェックによるアクションとなることも平然と起こります。なのでこうした区分けに勤しむ大学教員は評価の意味を全く理解せず、テスト結果だけで評価する学校現場というレッテルを貼って学校と教育を評論した結果、的外れな決めつけを開陳するというバカ丸出しをやらかします。

 学校現場ではこの評価に基づき、役割の割り当てやリーダーとしての負担、学習への最適化、集団への位置付け、宿題など学習に対する個別のアプローチを行っています。気づいていないかもしれないけど行っているんです。子どもと向き合っているとイヤでもこの情報は入ってきますし、人間ですからこの情報に基づいて行動してしまいます。
 教育の不思議なところは、この評価は実践にとって完全には按分されないところです。無理そうだけどもう一踏ん張りしてほしいとか、失敗してもいいから頑張ってほしいとかいう、「それってあなたの感想ですよね」的なアプローチがたまに混ざってきます。矛盾しているようですが、これは評価なしにはあり得ないアプローチです。この見立てが誤っていることもあります。でもその失敗結果は子どもの中に経験値や思い出として残っていく蓋然性があります。教員である以上毎秒毎秒こうした評価に基づく行動原理によって動かざるを得ないわけです。経験が豊富であろうとなかろうと。あればうまくやれる可能性は高まりますが、経験がなくとも失敗するものとも決まっていませんし、経験がなくてもそう振る舞わざるを得ません。それが教える側というもんだからです。
 もちろん学習的な側面だけではなく、人間関係の側面からも、特別支援教育の側面からも、生徒指導や安全、保護者との関係性も含めて評価の情報の種類は膨大です。
 そしてこれら全ては個別の教員による個別の評価の集合体になります。おそらくどんな学術的な分析をもってしても解析自体が相当困難です。高度な数学的知識に哲学的な人間理解と心理学的なアプローチ、集団論からの解析と非常にファジーな子どもというものへの理解が少なくとも必要になるからです。
 これまで挙げた全てのもとになるのが、子どもとの信頼関係と共に過ごした時間になるわけですから私が教科担任制に疑問を呈する理由もご理解いただけるかと思います。3、4年生に教科担任制を導入するなんてとんでもない話です。5、6年生でも大概ですが。6年の担任は子どもと過ごす時間が減っていることに苦慮することが増えています。教育行政の人間が誰も知らない事実です。
 今の教科担任制は教科指導の上手い下手にだけ特化した発想です。中学校と高校と大学はそうであるように。ここに信頼関係はあまり存在しません。観察する時間もほとんどありません。よく中高生が薄っぺらな教員と揶揄する場面によく出会いますが、言い得て妙です。バレバレなんですよね。大学教員なんて単位発行マシーンであって人間ではありません。もちろん例外があることは否定しませんがそれは一般的ではなく例外です。小学校だけ例外と一般的が逆転しているわけです。
 こうした日常的な評価と指導の一体化の事実が存在していることは厳然たる事実です。ただ言語化されていないだけで。

 なぜそれを大学教員が理解していないのか?
 それは大学教員や文科省の型通りの評価のカタチをしていないために、教員自身もそれが評価であることに気づいていないからです。
 もし、評価とはこれこれこういうものだというような垂れ流しがなければ多分気づく人も多かったのではないかと思います。
 私も今日言語化をして改めて気付いた評価や漏れ出した本音があることに驚きを禁じ得ません。
 梶田叡一、田中耕治、ひいてはBSブルームをこすりまくった日本の教育評価、学習評価が善の側面と同時に負の側面を担ったかということ、それはこれらのロジックに対して批判的な論点を許さなかったか構築できなかったかどちらにせよ大学に基礎付けられた教育評価研究がどれだけ脆弱であったかの証拠だということです。

 今言われている「指導と評価の一体化」がどんなに無意味なものであるか?今まで語られてきた評価キジュンが教育の仕分け作業、つまり学校をしんどい場所に変えていくことにどれだけ大きな貢献をしてきたか?ということです。

 いつもながらに思うこと。言語化は他者への気づきではなく、自分への気づきなんだなということです。
 前に書いた学習評価のnoteより若干の変更があったように自分で思います。変節や転向ではなく、ただの進化、深化であるのだろうと思います。人の意見が変わることに対する理解をしなければならないなという感覚は自分が意見を変えなければ掴みにくいことですね。と気づきの多い本日のnoteでした。

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