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『いだてん』より 〜嘉納治五郎「柔道とオリンピックの夢に生きた男」〜

『いだてん』37話(ネタバレあり)

昨日の『いだてん』は、涙なしには観られない回でした。1940年に招致に成功した日本だったが、五・一五事件や二・二六事件などで日本は軍拡化が進み、満州事変、日韓併合、日中戦争など、社会でも習った言葉が並び、騒然としていた。

オリンピック東京開催が決まったものの、1936年のナチス主導による豪華絢爛なオリンピックに、プレッシャーを感じ、政治や軍にも協力を要請した嘉納治五郎だったが、日本国内でも不穏な動きが進み、オリンピックなどをやっている場合ではないと、反対派や返還を支持する政治家まで現れた。

1912年のストックホルムの大会以降、IOC委員として、オリンピックに携わってきた嘉納治五郎。関東大震災から復興した日本を見てもらうこと。欧米でしか開催されないオリンピックを、アジアの極東の国に持ってくることを最大目標に、ついにその願いが叶ったのだが、自体は思いも寄らない事態へと進む。

元祖いだてん金栗四三は、世界記録を出し、絶好調だった1916年ベルリン大会、戦争によってオリンピックは中止になってしまった。オリンピックを奪われた苦しみを誰よりも知っていた。田畑にその思いをぶつけるも、戦争をしている今の日本でオリンピックをするのも矛盾。こんな時に、弟子を走らせたいと言う思いもまた、矛盾だと言われてしまう。

嘉納治五郎を支えてきた人達も嘉納治五郎に反対し、田畑政治さえも、戦争をやっている今の日本で、オリンピックをするのは、「平和の祭典オリンピック」に対して失礼だと、返還を支持する。返還するなら、エジプトで開催されるIOC会議に同行すると。嘉納治五郎の答えは、

「オリンピックは、やる」

嘉納治五郎は一人、カイロへ向かう。戦争を仕掛けている日本に対し、IOC委員一同は非難轟々。返す言葉もない嘉納治五郎だったが、

「believe me」

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30年間務めてきたIOC委員として、最高の東京オリンピックにする。私を信じてほしい。

その言葉に、改めて東京開催が決定する。

嘉納治五郎、御歳77。老体に鞭を打って、カイロへと渡ったその帰路、嘉納治五郎は体調を崩し倒れてしまう。少し回復した時、お茶会に誘われた嘉納治五郎は、「今までで一番楽しかったことは何か?」と皆に聞くと、楽しそうに話し合う人達。同行していた平沢が、嘉納治五郎に一番楽しかったことは何かと質問する。

「羽田運動場でいだてんに出会った時」

いや、違う。それも楽しかったが

「1912年ストックホルム大会に初参加し、「NIPPON」の札を掲げて、金栗くん、三島くんと開会式を歩いたこと」

それも一番じゃない。

「1932年ロサンゼルス大会。水泳で毎日メダルを取り、日の丸が掲げられるのは壮観だった。そして、日系人たちと、「私は日本人だ!」と叫んだ時も最高だった」

いやいや、それも一番ではない。

「一番は、東京オリンピックなんじゃないですか?」

平沢の言葉に

「それだよそれ!世界中をあっと驚かせるオリンピックをやるんだ!東京で!!」

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嬉しそうな表情で夢を語る嘉納治五郎だったが、1938年5月4日、太平洋の上で、永眠する。

オリンピックの夢に生きた嘉納治五郎

「一番楽しかった思い出」になるはずだった東京オリンピックを見ることなく、77年の人生に幕を閉じた嘉納治五郎先生。その最期は、東京でオリンピックを開催する為に、皆から反対され、信頼する同志にも反対され、IOC委員会でも世界中から反対されそうになっても、たった一人で、改めて東京招致を決めた。にも関わらず、見届けることはできませんでした。

人生の半分は柔道によって世界に名を轟かせ、東京高等師範学校の校長になり、体協(日本体育協会)の会長として、「日本体育の父」とも呼ばれました。1912年ストックホルム大会に、日中戦争、日露戦争に勝利し、世界でも注目される日本をオリンピックに招致するには、嘉納治五郎を引き込むしかないとも言われ、当時のIOC委員長のクーベルタンは、嘉納治五郎にラブコールを送りました。それ以来、人生のもう半分は、嘉納先生はIOC委員となり、オリンピックと共に生きたと言えます。そして、「東京オリンピック」を人生最後の目標として、その実現の為に、誰からも反対されても、信念を貫いて、命を全うしました。誰に反対されても、己の信念を貫く姿には、涙を禁じえませんでした。

しかし、太平洋戦争、第2次世界大戦によって、東京でオリンピックが開催されることはなく、1944年は中止、1948年は日本は招待されず、三大会も参加できなかったのです。
もし、嘉納先生がまだ元気に生きていれば、1940年には80歳、中止になった1944年には84歳になります。人生の半分をオリンピックに捧げてきた嘉納先生に対し、それはあまりにも酷な仕打ちだと言えるでしょう。

信念を貫いて、夢を見ながら死ぬのも、幸せな生き方

人はいつか必ず死にます。それがいつかはわかりませんが、その後オリンピックを返上しなければならなくなったことや、次の大会が中止になることを、生きてみなければならないのだとしたら、絶望のうちに亡くなっていたのかもしれません。
東京開催が決定し、夢をみながら死んでいった嘉納先生は、もしかしたら幸せだったのかもしれません。

日本が世界に誇った嘉納治五郎先生。『いだてん』を見るまでは、『YAWARA』に出てくる猪熊治五郎のモデルだった柔道の神というイメージしかありませんでした。

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しかし、嘉納先生がこれほど命をかけてオリンピックに命を賭け、日本のスポーツの礎になっていることは知りませんでした。『いだてん』が始まって9ヶ月。もう嘉納先生の姿を見ることができないのは寂しいですが、嘉納先生の遺志を継いだ田畑政治さんの姿を、最後まで見届けたいですね。

ありがとう!嘉納治五郎先生!役所広司さん!

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