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周りに全力で流されて生きてみませんか?

私の愛しいアップルパイへ

前回の記事では「人生をゴールから逆算するのをやめよう」と市民ケーンのごとく雄弁に語りました。まだお読みでなければ、まずはこちらを読んでみてください。

しかし、逆算することなしに、何を基準に生きれば良いというのでしょうか?理想も描かず、ただ惰性的に生きれば良いということなのでしょうか?

否、否、三たび否!

今日はこの疑問に答えていきたいと思います。七面倒くさい説明を省いて端的に言えば「周りに全力で流されて生きる」ということです。なんと甘美な響きッ!


行動は押し出されるのか?引き出されるのか?

何かを行動に移そうとするとき、大きく2つのアプローチが考えられます。行動が自身の内部から"押し出される"と考えるか、環境による影響によって外部から"引き出される"と考えるかです。

言うまでもなく、前述した「人生をゴールから逆算するやり方」は行動が自分の内部から"押し出される"と考えます。理想や目標、計画にもとづいて、行動を内側から押し出そうとするわけです。

一方で、その反対のやり方もあります。自分が身を置く環境に身を委ねて、必要な行動が外側から引き出されるやり方です。

いわずもがな、現在、多くのビジネス書や組織内での教育では前者の方法が一般的です。自らの内なる感性にしたがって、自分の意志で望ましい行動を自由に選んで決断しなさいと。

「やりたいことをやりなさい」「自分の頭で考えなさい」「自分の価値観に従いなさい」「理想のキャリアプランを設計しなさい」「人の目など気にせず好きなことを追求しなさい」「自分ならではの才能を見極めて発揮しなさい」というわけです。

そして後者のやり方は「主体性に欠ける」「意志が弱い」「決断力がない」としばしば批判されます。

しかし、本当にそうなのでしょうか?行動は内側から押し出される方が手放しに称賛され、外部から引き出される方は場当たり的で評価に値しないものなのでしょうか?ここで少し立ち止まって考えてみませんか?というのが、この記事の趣旨です。

今回も前の記事に引き続き大作となりました。淹れたてのカプチーノを用意しましたので、ゆっくりしていってください。

理想に向けて主体的に決断する?

行動が内側から"押し出される"とは、端的にいうとこういうことでしょう。

理想に向けて自由な選択肢の中から主体的に決断する

しかし、ここには多くの欺瞞が隠れています。

まず、理想や目標を設定することはけっして容易でなく、大きく間違えることです。気付いたら望んでもいない方向に全力疾走していたなんてこともあり得ます。

理想や目標を基準とすることは、傲慢にも答えが分かっていると仮定します。そのため、少なからず未来予測を必要とします。5年前の自分に現在の状況を説明したら、とても信じようとはしないでしょう。

5年でも難しいのに「人生」という長期的な視点で答えを決めるのは不可能というより、ナンセンスです。ボブ・ディランも「答えは風に吹かれている」って言ってました。

主体的な決断とは、未来予測にもとづくのではなく、本当の自分の感性に従うのだと主張されることもあります。だから、本当の自分を理解しましょう、本当の自分を分析しましょうと呼びかけます。

しかし、本当の自分などどこにいるのでしょうか?外部の影響を受けず、完全に社会から切り離された個人としての一貫した自己などどこにあるのでしょうか?「本当の自分」、これこそ未来予測よりさらに曖昧模糊としたもので、存在が疑わしいものです。どちらかというと宗教的教義に私には見えます。

自由な選択肢の中から主体的に決断するというのも疑問です。

ここまでメディアというものに資金と技術力が投入され、その影響力を競い合っている現代社会において、我々に自由で主体的な選択をする余地がどれだけ残されているのでしょうか?選択しているというより、選択させられていると感じたことは一度や二度ではないでしょう!

おっと失礼、少々熱くなってしまいました。違うんです。

なにも「理想に向けて自由な選択肢の中から主体的に決断するやり方」の不可能性を証明したいわけではないのです。それを信じて行動することにはメリット以上のデメリットがあるかもしれないと言いたいのです。

外部から多分に影響された選択肢を「自ら主体的に選んだ」と後から解釈しなおすことで、他者に良いように動かされてしまうかもしれません。それよりも輪をかけて重要なのは、うまくいかなかった時に「自分のせい」にせざるを得なくなることです。

「タイミングが悪かった、運がなかった」と思うよりも先に「他でもない自分が主体的に選んで決断したのだから、自分が悪い」と思ってしまうのです。

理想を植え付けられ、そこから逆算して行動し、うまくいかなかったら自分を責める。

このスパイラルから自信を失い、毎日の満足度や幸福度を下げてしまうのです。いずれは日々の1分1秒が苦しいものとなり、ベッドの上で身動き1つ取れなくなってしまうかもしれません。

お気付きとは思いますが、これはすべて私がかつて体験したことです。

周りに流されて行動が起こるに身を任せてみる

もう一つ、次のようなまったく別のやり方もあります。

環境に合わせて必要な行動が起こるに身を任せる

環境による影響によって外部から"引き出される"に任せてみるのです。自分が身を置く環境、取り巻く状況、直接的な人間関係を主体として、それらに適合するように行動を起こすのです。

つまり、全力で周りに流されてみることです。多かれ少なかれ、どう言い繕ったって人は周りに流されているものです。これに一切の抵抗をやめてみるわけです。

周りに流されて生きるなどと言えば、「意志力がない」「主体性がない」「決断力がない」といった誹りを受けるでしょうか。

しかし、周りに流されて生きるとは、酔っ払いみたいに「寝転がっていれば転ぶことはない」などと嘯いて何も行動しないことではありません。

むしろ逆です。今目の前にある環境に合わせて、つまり同僚や家族、その他様々な所属組織や住んでいる地域が求めていることに合わせて行動が起こるに身を任せるのですから、行動力はむしろ自然と高くなることが多いのです。

というよりも、主体性に欠けていて行動に移せないとか、意志力が弱くて動き出せないといった状況は、むしろ前述したような「理想に向けて主体的に行動しようとした結果」なのかもしれません。

何年も「主体性」「意志力」「決断力」を重視しすぎた結果、自分を責めること増え、それが当たり前になって、身動きが取れなくなってしまったのです。

思考力 vs 洞察力

理想に向けて自由な選択肢の中から主体的に決断するためには思考力を必要とします。過去を振り返ったり未来を想像したりして、根拠を持って行動を決めます。

一方、環境に合わせて必要な行動が起こるに身を任せるには洞察力を必要とします。自分を取り巻く状況を観察して、自然と行動が起こるに身を任せます。

思考力は考える力です。洞察力は気付く力です。それぞれの違いを簡単に比較表にしてみました。

思考力 vs 洞察力

思考力が優位の状態から、洞察力が優位の状態へシフトしましょうというのが本書の提案です。

勘違いしていただきたくないのは、思考力が無駄だとか、役に立たないなどと言うつもりはまったくありません。それどころか、思考力は人間がもつ突出してすばらしい能力です。特に、思考力が洞察力のコントロール下にあるなら!

全力で周りに流されて生きるパワー

理想に向けて主体的に行動する代わりに、環境に流されて必要な行動が自然と起こるに任せると、どのような良いことがあるのでしょうか。今までの理想から「逆算」する主体的な生き方とどう違うのでしょうか。

大きく3つの良いことが起こります。

1. 生きるのが楽になる

第一に、シンプルに生きるのが楽になることです。なぜなら、決断というプロセスがいらなくなるからです。

理想を掲げて主体的に行動しようとするためには、行動を内側から押し出す必要があります。そのために「決断」というプロセスが不可欠です。

「理想に向けて動き出そう!」「生活を改善しよう!」「習慣を変えよう!」こういったことを実行するために決断が必要です。

なぜなら、現実に抵抗する必要があるからです。当たり前ですが、理想は現実とギャップがあります。このギャップを埋めようと現実に変化を起こそうとする行動する行為は、現実への抵抗といえます。

他人からの頼まれごとや誘いに対しても抵抗が生まれます。理想的な行動に対する他人からの「割り込み」と感じてしまうからです。

現実への抵抗は反省や改善といった形で表れることもよくあります。理想と比較して現実の生活を反省し、改善しようとことでギャップを埋めようとするからです。

残念ながら、今目の前に実際に存在しているのは理想ではなく現実の方です。毎度、現実への抵抗を決断によって押し通すのは、骨が折れるでしょう。これが人生全体に対して、長期にわたって行われるのであれば、たいへんな作業です。

そうではなく、全力で周りに流されてみるならどうでしょうか。現実に抵抗する必要がなくなり、「決断」というプロセスもなくなります。ずっと生きるのが楽になるはずです。

2. 目標、計画、自己分析から解放される

第二に、理想を探したり、定義したり、根拠を探すために一連の儀式から解放されます。

理想というのは適当に掲げるものではないとされています。過去や未来との関係から、代理石像のごとく冷徹になってじっくりと考え、イメージを作っていくわけです。

理想ができただけでは終わりません。それを実行に移せないと意味がありませんから、逆算が必要となります。理想へ導く適切な中間地点としての目標を立てたり、計画を立てる必要があります。ときにはやるべきこと洗い出して細かく分類することもあるでしょう。

理想が人生全体に関わるとなれば、その範囲は膨大になります。

そして、理想や目標が望ましい方向性からずれていないか定期的に確認するため「価値観」と呼ばれるようなもので検証が必要ともされています。

価値観は「自分らしさ」や「本当の自分」と呼ばれる存在によって定義される考え方や行動の判断基準で、本当の自分を知らないと分からないそうです。

自分らしさや、本当の自分という実際には答えのない問いと向き合い続けなければならないのです。そのため、じっくりと思考を巡らす時間を取ったり、大量にメモに書き出したりといった儀式が必要とされることもあります。ときには数十分や1時間以上かかる自己分析テストを受けたり、ときどき占いに頼ったりします。

全力で周りに流されるなら、こういった一連の儀式は一切不要となります。その代わり、環境や状況をじっくりと観察して、求められる行動が自然と起こるに身を任せます。

自分が何者であるかについても問題とならず、自分とは身を置く環境や取り巻く状況に応じて相対的に決まる存在であるとキッパリ割り切れます。そして、あらゆるものを「自分のせい」にする必要がなり、このことからも生きるのが楽になるでしょう。

3. 運が良くなる

第三に、偶然の力を最大限使えるため、チャンスをつかみやすくなります。運が良くなるのです。

「セレンディピティ」と呼ばれるようなすばらしい偶然や、思ってもみないチャンスというものは、例外なく外部からもたらされます

行動が理想にもとづいて主体的に決断され、内側から押し出されるなら、外部から与えられた機会に対する反応は必然的に鈍くなります。

他人からの提案を「邪魔が入った」と無下にしたり、いつもと違う状況を「面倒なことになった」と後ろ向きに捉えがちになるからです。

全力で周りに流されていれば、こういうことはありません。提案に乗っかったり、障害を機会に変えたりすることがうまくなります。

これ以上に運が良くなる方法など他にないでしょう。

目の前の現実をそのまま、まるごと受け入れる

周りに全力で流されるとは、別の言い方をすれば「目の前の現実をそのまま、まるごと受け入れる」ということです。

受け入れがたい現実は必ずあるでしょう。否定したくなる経験は避けられません。逃げ出したくなる状況に陥ることもあるでしょう。大抵の場合、それらを変えることは難しいものです。それはあなたのせいなどではないからです。

しかし、現実を変えることはできなくとも「目の前の現実をそのまま、まるごと受け入れる」ことは可能です。

現在が未来のための手段に成り下がることがなくなるため、日常に満足できます。現在に満足できるなら、幸福度も高まります。日常が1分1秒と進む中で安らぎを得られます。

そして、現実を受け入れるところから、予想もしなかったような可能性が広がっていくのです。

では、どうやって?

すばらしい質問です。

では、どうやって?

はこの世で最もすばらしい質問のうちの1つです。

この記事が寄稿されているマガジン「ユタカジン」には、すでにさまざまな方法が200記事近く投稿されています。ぜひ一覧を見てみてください。

貴下の従順なる下僕 松崎より

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