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アメリカン・ジャズとポピュラーミュージックにおけるガール・グループの歴史と役割:第1章

1920年代 - ヴォードヴィルでのエンタメからスウィングへの変遷

1920年代、エンターテインメントと音楽産業は大きな変化を迎えました。この章では、この時代のエンターテインメントの風景と、音楽業界での女性の新たな役割に焦点を当てます。

ヴォードヴィルの華やかな舞台

1920年代のアメリカン・エンターテインメントシーンの中心には、多種多様な舞台芸術がありましたが、特にヴォードヴィルは国民的な現象となりました。ヴォードヴィルなどは、コメディアン、ジャグラー、マジシャン、そして音楽家たちが一堂に会し、多彩な才能を披露する場でした。ショーは、都市部だけでなく、アメリカ全土の小さな町にまで波及し、地方の人々にも大衆文化の進化を感じさせるものでした。

中でも注目されたのは、この時代における女性アーティストの台頭でした。彼女たちはヴォードヴィルの舞台で中心的な役割を果たし、男性が支配的だったエンターテインメント業界に新たな風を吹き込みました。
例えば、スリー・X・シスターズは、ヴォードヴィルのステージからその才能を国際的に展開し、1927年には英国とヨーロッパでのツアーを成功させ、その地でのレコーディングと放送にも参加しました。彼女たちのステージは、優れたハーモニーと卓越したステージパフォーマンスで知られ、多くの観客を魅了しました。

ヴォードヴィルのステージは、ジャズ、スウィング、そしてR&Bへの発展にもつながるこのエンターテインメント形式であり、音楽だけでなく、アメリカ文化全体においても重要な役割を果たしました。これらのショーでの経験が後の多くのアーティストに影響を与え、特にスリー・X・シスターズのようなガール・グループは、自らの才能と革新性で音楽シーンに新たな方向を示しました。

スリー・X・シスターズの軌跡

ジャズとポピュラーミュージックの発展において特別な役割を果たしたスリー・X・シスターズの音楽キャリアは、女性が主導する楽団が稀だった時代に、新しいジャンルを切り拓いたことで重要です。
このガール・グループは、1910年代後半から活動を開始し、1920年代初頭には本格的に音楽業界でのキャリアをスタートしました。彼女たちはミュージックホールやヴォードヴィルの舞台からスタートし、当初はコミカルなパフォーマンスで観客を楽しませていましたが、徐々にその音楽性を深め、独自のスタイルを確立していきました。
1927年にはイギリスとヨーロッパをツアーし、その地での成功を収めました。特にイギリスではBBCラジオへの出演を果たし、彼女たちの音楽は広く認知されることとなりました。

スリー・X・シスターズが初めてステージに立ったのは1923年のことで、その後も彼女たちは一貫して人気を博し続けました。彼女たちのパフォーマンスは、特にハーモニーとクローズハーモニーの技術で知られ、1930年代に入ってからはラジオ番組での活動も増え、その人気はさらに加速しました。

彼女たちの音楽は、ジャズやスウィングといったジャンルに新たな息吹をもたらし、後の音楽シーンに多大な影響を与えました。また、女性アーティストが自ら作曲や楽曲制作に関わるという点でも、彼女たちは先駆者と言えるでしょう。このようにスリー・X・シスターズによって開拓された音楽的風景は、特に女性アーティストにとって新しい可能性を開きました。この流れは、1920年代における女性の社会進出と音楽産業全体の変革をさらに深化させることになります。

女性の社会進出と音楽産業

1920年代は、女性が社会でより活発な役割を果たし始めた時代であり、特にエンターテインメント業界において顕著な変化が見られました。特にヴォードヴィルと初期のレコーディング業界では、女性アーティストたちが前例のない方法で観客を魅了し、新しいジャンルを開拓しました。

ヴォードヴィルの舞台では、多くの女性が単なる歌手やダンサーではなく、作曲家、楽団リーダー、そしてプロデューサーとして活躍しました。例えば、ヴォードヴィルのスターであったソフィー・タッカーは、その強烈なパフォーマンススタイルと自立したキャリアで知られ、「最後の大物(The Last of the Red Hot Mamas)」として名声を博しました。彼女は自身のレパートリーを自ら選び、しばしば自らの性格と独立心を反映した楽曲を披露して観客を惹きつけました。

また、1920年代にはベッシー・スミスや、ビリー・ホリデイなどアフリカ系アメリカ人女性アーティストがブルースやジャズのジャンルで成功を収め、音楽業界における人種的および性別に基づくバリアを打ち破りました。彼女たちは自らの声を用いてアフリカ系アメリカ人の日常と闘争を表現し、社会的なメッセージを音楽を通じて伝えることで、大衆文化の中で重要な役割を果たしました。

この時代の女性アーティストたちは、自らの才能と持ち前の勇気で業界内のジェンダーダイナミクスに挑戦し続けました。彼女たちの業績は、1930年代のスウィング時代やそれ以降の音楽スタイルの進化においても、女性が業界で主導権を握るきっかけを作り、音楽スタイルの進化に対する彼女たちの影響を不可逆的なものとしました。この時代の終わりにかけて、ジャズとそのサブジャンルであるスウィングが更に発展し、大きな文化的影響を与えることとなります。

スウィング時代の幕開け

1920年代の音楽とエンターテインメントの変遷は、1930年代のスウィング時代の隆盛に大きな影響を与えました。1920年代、ジャズはアメリカの大都市を中心に爆発的に広がり、多くのミュージシャンとバンドがその流行に乗じました。この時代の終わりにかけて、ジャズはさらに洗練され、「スウィング」と呼ばれる新しい形式が登場し始めました。この新しいジャズの形式は、よりリズミカルでダンサブルな音楽へと進化し、広範な聴衆に受け入れられました。

スウィング音楽の人気を決定づけたのは、ビッグバンドの台頭でした。ベニー・グッドマン、カウント・ベイシー、デューク・エリントンなど、名だたるバンドリーダーたちがその波をリードしました。これらのバンドは、トランペット、サックス、トロンボーンなどのホーンセクションを前面に出し、ピアノ、ベース、ドラムズからなるリズムセクションのドライブ感を増すことで、強力なグルーヴを生み出した。この音楽は「スウィング」と名付けられ、アメリカのポピュラー音楽シーンで中心的な役割を果たすことになりました。

特に1936年(1935年という記述もありますが)8月に、ベニー・グッドマンがロサンゼルスのパロマー・ボールルームで開催したコンサートで一躍スターダムにのし上がったことは、スウィング音楽が大衆文化の中でどれほど重要な位置を占めていたかを示す好例です。このコンサートは多くの若者に影響を与え、全国的なスウィングダンスのブームを引き起こしました。

このように、1920年代の音楽シーンの発展が、1930年代のスウィング時代の隆盛を支えました。次章では1930年代のスウィング音楽がどのようにアメリカ全土に広がり、そしてどのように文化的に影響を与えたかを詳細に掘り下げていきます。

本記事は、木村潤の遺稿を元に再編集しています。
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