書く・書かないの境界線
記者時代、内容によって記事を書く・書かないの判断は常につきまとった。
もちろん、会見・発表・インタビューなど既成事実に基づく内容の記事は「出す」一択だが、いわゆるネタを追っている最中のスクープ的な話については、デスク(エディター)と相談した上で、慎重に判断した。
こちらも記事化する前提で取材を続けてはいるのだが、途中で、書く価値のあるネタだろうか、だったり、書けるレベルの確証はあるのか、といった不安もよぎる。
報道機関によって方針は違うかもしれないけど、どれだけ裏がとれているか、記事の内容のインパクト度合いも鑑みながら、どの段階で記事にするか、しないか、よく話し合ったものだ。
いわゆるリーク記事の場合は、ある程度の確証があるので、安心感を持ちながら、世の中に出せるのだが、そのケースに当てはまらない場合は、リスクも伴う。
私が働いていた報道機関では、複数の関係者から裏付けが取れた場合のみ、記事化するというルールがあった。
取材先から「なぜこの段階で記事を書くんだ?」というお叱りを受けたこともあった。ライバル社との競争を意識して、どうしても前のめりになってしまう。
それでも、他社に抜かれる前に書きたいので、どこかで飛び降りる覚悟も必要だ。最初に記事を配信するのはやはり勇気がいる。そのような機会はそこそこあった。それなりに影響力のあるメディアだったため、記事を出した後、他社がちゃんと後追いしてくれているかどうか、ドキドキしながら、朝が明けたなんていうこともあった。
一方、大小はあれど「スクープ」として出したのに、誤報だった、ということがあったら、かなり恥ずかしい。読者や周辺からの信頼も失うだろう。報道がでたことで、ディールの交渉が破談になることも時折ある。
では、noteではどうか?
note上での書く・書かないの判断はすべて自分次第。そして記事の内容についてはすべて自己責任だ。
匿名ではあるが、書くことで特定の人・組織・属性を傷つけないか、など極力配慮しながら、今は書いている。
それでも、書かないケースはあるのか?
「材料が乏しい」以外の理由で、記事を見送ることはないが、書けないワードも結構ある。これ以上踏み込んで書いたら、身バレするだろう、というリスクがちらほらする時は筆を一旦置いている(というかタイピングする指を止めている)。
ただ、詳細に踏み込まないと、本質を避けているようにも思え、最近は、少しずつではあるが、私の素の部分をお見せしている。
記者時代とnoteでの記事への執筆の判断基準は異なる。
取材の詰めが甘いと記事を出せなかった記者時代。そして、内容に踏み込み過ぎると記事を出せないnoterとしての今。
なんだか、不思議な気持ちだ。
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