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「結婚してぇ」と 「独身サイコー!」のはざまで




「あー結婚してぇ」
深夜11時。私たち以外誰もいなくなったフロアに魂の叫びが響き渡る。
急な業務対応があり、後輩と遅くまで残業していた夜だった。ぎょっとした。

「結婚したい」なんて言葉を、生身の23歳男から聞いたことがなかったから。

よほどぎょっとした顔をしていたんだろう。
「弱ってると結婚したくなりませんか?」と後輩の弁解が入る。
当時24歳の私にはさっぱり共感できなかった。
残業でしんどい週は、金曜日に友達とどんちゃん騒げばいいじゃん。
風邪で寝込んだときはネットスーパーやウーバーがあるじゃん、と本気で思っていた。

あれから幾星霜、結婚したい夜はまだ訪れないが、自分の中に近い感情を見つけた。
働いて、飲んで歌って、二日酔いの頭を抱えながら三度寝して、天井を見ながら虚しさに襲われた土曜の夕暮れ時。
仕事でもプライベートでも辛いことが続き、外に出かける元気も出ずに半泣きでカップラーメンをすすった夜。

仕事や実家の愚痴パレードの直後に、
「てか、もう結婚したいかも」
「わかるー!今すぐ結婚してぇー笑」と冴えないなぐさめが宙に舞った女子会。

それらは、言い換えるならばBADモードに入ったとき口にする軽率な「死にたい」であり「しんどい」だった。
長年にわたり自分のことをそばで観測してくれて、理解してくれる相手が欲しい。
「この人がいるから大丈夫」と思える誰かが欲しい。
人は、しんどくて死にたくなったときに結婚したくなるのだ。
大丈夫になりたくて、結婚したくなるのだ。
本当に欲しいのは、一生そばにいてくれると保証された存在であって、それは友人でもペットでもいいのかもしれない。


ところが30歳に近づくにつれ、「結婚してぇ」ではなく「結婚......してぇのか?できるのか?」という余計な疑問符付きの感情に出会ってしまった。

あれは友人数名とイタリアンで食事をしたときのこと。
私を含め、多くの二十路女はお祝い事が大好きだ。
その日は入籍前の子と妊娠安定期に入った子にサプライズでデザートプレートを出す予定だった。
コースの終わりにさしかかり、黒いエプロンをつけた店員さんが2枚の大きなお皿を持ってくる。
カットされたフルーツや色んな形のケーキが飾られていて、メッセージとろうそく付きのザ☆お祝いプレートだ。

ろうそくが消えないうちにみんなで写真を撮ろう、と腰を上げた瞬間、もう一人の黒エプロンがなぜか私のほうに追加のプレートを運んできてくれた。

「Happy Birthday」と手慣れた筆記体で書かれており、自分が2週間後に誕生日を迎えることを思い出した。
私の分のプレートをこっそり用意してくれたことへの感謝と嬉しさがこみ上げてきたが、いざ写真撮影となり、妊婦・新婦・私の順で前列に座って、後列に女子二人が並んだとき、ひと筋の恥ずかしさが胸をかすめた。
初めての出産・一生に(おそらく)一度の結婚・ただの誕生日。
部屋でゴロ寝をしていても必ず年に一度訪れるただの誕生日。

対等に並んで一丁前に祝ってもらっているが、私とこの二人の「おめでとう」の重さは違うのでは?私も後列に並ぶべきでは?
それは生まれて初めて、座りの悪いぎこちない気持ちでケーキの上のろうそくを吹き消した経験だった。

それからしばらくすると、鈍感な私でも、身の回りで起こる異変に気がつくようになった。
「私事ですが」から始まる、かしこまったSNSの投稿文が増えてきた。
付き合っている人がいると伝えれば必ず「その人と将来考えてるの?」「何年付き合ってるの?今何歳だっけ?そろそろだね」と〝将来設計+年齢〟のアンハッピーセットな質問を職場の先輩からいただくようになった。


スマホの画面に流れてくる〝婚姻届〟の3文字の上に置かれた金属の輪っかを見れば意地の悪い笑いがこみ上げるし、「プレ花嫁修業(笑)」と恥じらいの文字とともにアップされた照り輝くブリ大根の写真を見ると寒気が走るようになった。

同様の異常現象は周りでも観測された。
毎週のように流れてくる結婚報告や結婚式の写真に耐えられずインスタのアカウントを新しく作り直した子。
結婚する気はないのか、真剣に将来を考えているのかと親に尋問されるのが嫌で正月の帰省を見送った子。
3年付き合っていた彼氏と別れて結婚相談所に駆け込み、授業参観のおかんのような服装を一式買わされ後悔にさいなまれる子など心強い独身仲間もいた。

親は私のような人間がすぐ結婚できるとは毛頭考えていないようで
「今の時代、仕事は必修だけど結婚は選択科目よ」
と甲斐甲斐しい言葉をかけてくれたが、その翌週には仮想通貨の記事とともに
「ビットコインはやめなさい、お金は結婚資金とかのために貯めておけば」
と脈絡ゼロのアドバイスがLINEに飛んできた。
行くあてのない結婚資金など今すぐ投信にぶち込みたい。

「婚活アドバイザーが暴露!28歳と29歳の格差」という釣りタイトルだって今までは華麗にスルーできたのに、意に反して指が画面をタップしてしまう。

小ざかしいアラサーにもなると「結婚」はイベントではなく日常であり、「婚姻」はロマンスではなくシステムだということがわかってくる。

結婚生活が始まれば、今の自由気ままな生活の一部を失うことになる。
苗字を変え、義理の親に採点をされ、親戚付き合いと帰省先は倍になり、保険を見直し、大きな買い物は夫婦で相談。
週末は飲み会かダル着ネットフリックスの私としては、想像するだけで気が遠くなり、心はずっしり重くなる。

どうしてみんな、独身という岸辺から夫婦という名の小舟に嬉々として乗り込むのだろうか。
自分が連れ添った苗字を、アイデンティティの一角を成す苗字を、出会って数年の人間のそれに切り替えられるのか。

「家制度」は1898年の明治憲法下の民法に始まり、戦後GHQの改革により廃止された。
家に入った〝嫁〟が苗字を変え、主人が一家の責任を負うというシステムは75年も前に消滅したはずなのに......。

お揃いの苗字が嬉しい!という個人の感覚は自由だ。
だが「同じ戸籍に入るんだから女が男の苗字になるのは当たり前でしょ」という主張を見ると、お前は時空を超えてやってきた明治政府からの刺客か?と身構えてしまう。
もう、こじらせアラサーの立派な一員である。

「25歳で結婚して、26歳でウェディングドレス着る」
 そう豪語していた友人は、計画を1年後ろ倒しにしたものの、学生時代からの彼氏と無事に遂行した。マイナス6キロのダイエットに成功し、純白、桜色、そして朝の空のような幻想的な青と、3着のドレスに身を包んで現れた彼女は、ディズニープリンセス顔負けの〝主役〟だった。

「だってその頃が一番きれいな時期じゃん。ピーク過ぎてからドレス着たくない」
あのころ22歳の彼女が放った言葉は、今も私のみぞおちに沈んでいる。
私だって、結婚したい、純白のドレスを着てみんなにお祝いされたい、と一寸の迷いもなく言える人間になれたらどんなにラクだっただろう。

まあいつかは結婚したいよね〜とその場でヘラヘラ話していた友人たちの半分は、20代半ばで軽やかにその「いつか」にたどり着いたのに。

「結婚してぇ」という無責任な叫びは水を吸った真綿のように年々重みを増し、 歳が近くなると誰も口にしなくなった。友人やペットを求める感覚で、「そろそろ結婚したいかも?」なんて思っていた時期が懐かしい。
 
ひねくれ者の私にだって、恋の熱に浮かされながら、ああこの人とずっと一緒にいたいと思った瞬間は何度も訪れた。
 一方で「結婚」したい、(こじらせアラサーの直訳をかけると)婚姻制度に加担したいなんて思ったことは一度もない。

かわいげのかけらもないことを言ってしまうと、「したこともないものを一生かけて成し遂げようとするなんて、正気の沙汰じゃないwww」と思ってしまうのだ。

「結婚なんてのは、若いうちにしなきゃダメなの。物事の分別がついたらできないんだから」と樹木希林さんも言ってたじゃないか。

希林さん、若いうちって何歳までですか?
物事の分別はつきそうにないので、こんな歳でもセーフですよね?

大体アラサーは「将来」という言葉に弱いのだ。
結婚とともに語られる「将来」という言葉は、ずるりと私の胸に入ってきて、 心臓のあたりにじわじわ嫌なシミを広げる。
自分の寄る辺や居場所を脅かされ、今立っている場所がグニャリとゆがむ。

ヤンキードラマで何回も見た「お前!何だこれは」と空欄の進路希望調査票を担任が突き返すあのシーンみたいだ。
私たち独身アラサーは、世間という担任に「もうちょっと真剣に考えてこい」と何度もこづかれ続けている。
この歳だと、もうヤンクミ側なのに。

でも結婚という形なきプレッシャーが年々近づいてくるのと並行して、自分の心地いいようにカスタマイズされた生活の型は固定され、独身ライフはヨギボーのように私の贅肉にフィットする。

「結婚してぇのか?」と「いうても独身サイコー!」のはざまを行ったり来たりしながら、散らかった1Kの城で、私は今日もダル着ネットフリックスをキメている。


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 2022年12月22日発売「そろそろいい歳というけれど」より抜粋

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