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あまり見直しもせずに一気呵成で書いています。とにかく書いてみること、外に出してみること…

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あまり見直しもせずに一気呵成で書いています。とにかく書いてみること、外に出してみることの訓練として。読まれる事がこんなに励みとなることを最近知りました。

最近の記事

#28 Perfect Days - Lovely Days

昨日はPerfect Daysについて書いたけれど、今日は『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を娘と見に行ったこと。 自分は特にみたいとは思っていなかったけれど、パートナーの親戚が亡くなり、母親が心配で実家に日帰りで下の娘を連れて行ってくるから二人で映画でも見てきなと勧められたので。パートナーはなぜか一人で去年の11月あたりに見に行っていた。たぶん、見て欲しいと思ったのだろう。 昨日はPerfect Daysを見て帰ってきて、とても疲れていたのもあってここ最近の上の娘への苛つきが最高潮

    • #27 再開 Perfect Days 1

      年末が差し迫ってきた頃に友人が亡くなった。 彼女とは、家が近所でもあり、仕事も何件か一緒にやり、4〜5年ぐらいの付き合いだった。余りにも若い歳での突然の出来事は、生前同様に周囲に大きな衝撃を与えた。亡くなる2日前まで普通に打ち合わせをしていたという人もいたし、今後のスケジュールも詰まっていたようだった。 割と身近な僕らはこの1年半の間、うっすらと頭ではわかっていながらもそれでもまさか、そんなことは今日明日には起こり得ないと思って彼女と過ごしていた。このことはまだうまく言葉にで

      • #26 バッタを逃がした娘

        娘が帰ってきた。 妻ではなく僕が出迎えると不満気な顔をして玄関に入ってくるのでもう迎えにドアを開けてあげることも無くなった。 薄暗い廊下からニョキっと出てきた娘はやはり俯き加減で口がへの字に曲がっていた。僕は洗濯物を畳みながら、ママは妹を病院に連れて行っているだけですぐに戻るよ、と言い訳をした。 いつも母親の姿が見えないとただいまも言わずにママはどこ?と聞くのに、今日はずっと俯きながら重苦しそうにランドセルを洗濯物の真ん中に置いた。 どうしたの?と尋ねもしなかったと思う。その

        • #25 デザインにおける他者と世界の理解について

          僕はこれまでデザインの仕事をしてきた。 20代の時に素晴らしいデザイナーの方にゼロからデザインを教わり、それまでは研究一本槍で閉塞感に苛まれていた自分に新しい地平が開かれた。 デザインの実効性に魅了された。 同じ内容、同じものでも、想像的なものと象徴的なものの操作によってここまで異なる次元に昇華することができる。 しかし、それは決してデザインという操作手法によって可能になっているのではなく、むしろ人々がいかに誤解し、理解し得ないどうしようもない現実がそうさせているか、むしろ人

        #28 Perfect Days - Lovely Days

          風邪

          かぜ、邪な風 正しい身体に吹いてくる風 どこから来たの 何を運んできてるの 何もわからないまま正しくて誠実な身体は邪なものに犯されていく こんなはずじゃなかったのに でもあの時何か違う風が吹いていると知っていた気がすると身体は後悔していた かぜ、邪な風 正しいわたしに吹いてくる風 どこへ向かうの 何を運んでいくの

          #24 マシだったとき

          自分を他人と比較して責めるとき、どうかマシだったと思う頃の自分を思い返してみてくださいと誰かが綴っていた。 Netflixで配信されているマイルスの伝記映画を三晩ぐらいに分けて見終えた。マイルスの自伝はとても良かった。あれを読んだのはまだ20前後の「マシだった時」。 書き出しが格好良かった。人生で最良の瞬間、もちろんセックス以外で最良だった瞬間は10代の少年だったマイルスがパーカーとガレスピーの演奏を聞いた時なんていう回想を語るところから始まる。あれを読んだ時、自分がそこに

          #24 マシだったとき

          #23 日記、週末

          今は日曜の夜 10年前ぐらいは最も好きな時間で、今もすごく好きな時間。 でもその理由は全く違っている。 10年前は、ひたすらに月曜からどう仕事をするかを考え手を動かし、人よりも先んじて日曜に仕事をしている自分の姿に浸っていた。それはそれで本当に良かったとは思っている。ああいう時間の過ごし方が今も続いていれば良かったのにと思う。 土曜日 昨日は、友人が家に遊びに来ていた。人の家のキッチンでも手際よく美味しい料理をつくってしまう器用な友人。デザイナーである彼女がつくるデザイン

          #23 日記、週末

          #22 慣れと創造性

          こんなタイトルで書いてみたいと思ったのは坂口恭平の躁鬱大学を読んだから。 でもきっとこんな大層なタイトルについて書くことはできません。 考えたこともないし。 ただ、坂口恭平の躁鬱大学の#2だかを読んだからこんなタイトルが浮かんだに過ぎない。 誰にでもつくることそれ自体が楽しかった時期、それをしていることそのものに没頭していた時期があるはずです。 魚の観察でも、自転車を乗り回すだけでも、絵を描くことでも、漢字のドリルをやることでも。 そういう目的もなく、手段ですらもない行為そ

          #22 慣れと創造性

          #22 フリー

          ご自由にお書きください。 人のつくったものは全て、その人が世界をどう捉えているかを表現している。 そして、つくったものそれ自体が作り手に世界はこういうものだと、その製作物の置かれた環境(作品と他者との関係)において語り出す。その語りは、作り手にまた別の世界の可能性を語ることがある。そして再び作り手の行為の可能性が開かれる。 哲学は、この制作物の語りを聞く技術、そこから作り手の行為可能性を開く技術になるのではないか。なぜなら、哲学こそが「知ることを愛する」=「知ることを享楽す

          #22 フリー

          #21

          日本、特に東京の夏は昔から色々とある。 お盆、終戦、震災など記憶にまつわる事柄がとても多い。 自分が直接に経験もしていない様々な記憶が身の回りで囃し立てる。 あるひとは勉強とは自己破壊だと言っていたが、僕にとってそれは哲学そのものだと思う。 哲学の勉強をはじめたあの頃に自己破壊に陶酔していたように思うが、それは自己破壊という経験がそれよりもう少し前にあった。 その経験は音楽だった。 高校時代に音楽、特にジャズにのめり込んだとき、自分が好んで聞く演奏者たちの多くは既にこの世の

          #20 教育現場への哲学の導入について③ー制作の哲学、世界との交感

          前2回まで書いてみたことのケリを付けないといけないと思って、この3回目。3は完だから。 もう少し気軽に書いてみようと思ったけれど、大好きなセロニアスモンクをテレビに繋いだオーディオから流すために、テレビの入力機換えをセットしたときにCDが入ったままのブルーレイプレイヤーがカチっとリアルな音を出す。こういう一連の動作で久々に聴いたカチッというリアルな音が、着たこともない潜水服の首元をしっかりと僕自身が慣れた手つきで締めた感じがした。なぜか書くことが潜ることと重なっていたことに気

          #20 教育現場への哲学の導入について③ー制作の哲学、世界との交感

          #19 教育現場への哲学の導入について②

          前回のまとめ 前回は、学校で是非とも教えてもらいたいこととして「お金」と「哲学」を挙げた。前者はもう誰もがその重要性を語っており、高校などでも導入が進みつつあるので、後者の方を重点的に書いた。「哲学=知ることの喜び」に基づいて、どういう形で哲学が導入されれば良いかを考えてみると、経験に基づく必要性、そして己の文脈に触れることの大切さ、それを対象化するためには表現や制作とセットで哲学を学ぶ(ある程度の哲学史や哲学研究にも触れる)ことはどうかというアイデアに至った。 教育の

          #19 教育現場への哲学の導入について②

          #18 教育現場への哲学の導入について①

          今の自分が学生だったら学びたいこと 学校学校は教育のシステムの一つではあるが、これほど学校が全国に普及した日本のシステムはやはりすごいことだと思う。地域に隈なく(最近は統廃合があるけれど)設置され、誰もが基本的には通うことができる仕組みを作れたことは、本当に先人たちの偉業だろう。 誰もが学校がこうあったらいいと一度は夢想したことがあるはずだ。誰もが利用する銀行がこうあったらいい、などと考えることは少ないだろうけど。 誰もがそう考えたことがあるはずで、さらに日本全国に数多とあ

          #18 教育現場への哲学の導入について①

          #17 「世界か私か?」「干し昆布だ」(郡司ぺギオ幸夫『天然知能』)

          あらゆるものが繋がって、多義的に、重層的に、つまり過剰な流れ、濁流があって行為がある。 身体の信号の受け手は、本当に「私」でなければならないのか。もしかするとその問いに対してテクノロジーが応答しようとしているのかもしれない。むしろ、そのメッセージの受け手がわざわざ「私」と語る必要がないよう、AIは到来したのかもしれない。もう10年以上前からインターネットを経由した情報はそのポジションを占めているように思うし、テクノロジー全般、例えば培養肉などはまさに身体の信号を「私」ではな

          #17 「世界か私か?」「干し昆布だ」(郡司ぺギオ幸夫『天然知能』)

          #16 子どもと大人の「主体」

          ここ数日、何度書いても書き切ることができずにいた。「締める」ことが出来ない、というよりも「締める」ことにこだわり過ぎている。 最近のミーティングで話題に出ていたことで思い出したこと。 教育や学びの分野でよく聞く「子どもがまん中」「子どもが中心」。 この言葉にどうしても僕は違和感がある。 その周辺に大人がいるという構図。 それを口にする人は、周辺にいる大人たちの存在、主体としての大人をどう考えられているのだろうかと疑問に思う。 ミーティングで出ていた話題は、ある県の施策で子ど

          #16 子どもと大人の「主体」

          #15 タバコ

          最初は何かの箱の名前かと思った。幼い頃、それは日本語だと思っていた。 でも、言葉よりもモノとしての最初の出会いはもっと歪だった。喘息持ちの自分にとっては悪いもの、親を責めることができる唯一のものだった。いつもタバコを吸う親の前で咳き込んで早くタバコをやめてくれと日頃の不満をそれに転嫁してぶつけていた。きっとそれが初めての親への反抗だったのだろう。 子供でも発音しやすくて、何か昔から知っているような馴染みのある響きで、僕が唯一この歳までずっと続けてこられたもの。 初めてタバコを

          #15 タバコ