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#24 マシだったとき

自分を他人と比較して責めるとき、どうかマシだったと思う頃の自分を思い返してみてくださいと誰かが綴っていた。

Netflixで配信されているマイルスの伝記映画を三晩ぐらいに分けて見終えた。マイルスの自伝はとても良かった。あれを読んだのはまだ20前後の「マシだった時」。
書き出しが格好良かった。人生で最良の瞬間、もちろんセックス以外で最良だった瞬間は10代の少年だったマイルスがパーカーとガレスピーの演奏を聞いた時なんていう回想を語るところから始まる。あれを読んだ時、自分がそこにいなかったことを悔しくて、自分が生まれてきたときにはなんて色んなものがなくなってしまったんだろう、自分が知らないうちに失われたものばかりのひどい世界だと時間を憎んだ。
それと同時に、自分がジャンコクトーの絵や小説、映画に触れることができていることに奇跡を感じていた。行ったこともない、全くリアリティもわかないフランスという国で、自分が生まれた時よりもずっと前に死んだような人の作品に触れられる奇跡にひどく感動していた。楽器をやり始めたときにも、コルトレーンに対してずっといつもその驚きを感じていた。当時はCDだったので、英語のライナーノーツを読むだけで色々なことがわかり、2〜3枚しか掲載されていないモノクロの写真を細部まで眺めては自分が決してそこに居ることができなかった空間を想像していた。
そうしてもっとも自分が多くのことを受け取っていたのは、失われた時間や空間からだった。物理的、時間的にも僕がそこに居ることができないままに失われたものからより多くのものを引き出そうとしていた、というよりも勝手に受け取っていた。例えば、Gilles Petersonなどジャズを再評価するDJ、サンプリングとして使用するラッパーなどを聞くとどうしても僕は元ネタを探し、必ず元ネタに価値があることを認めていた。再解釈に過ぎないのか、もしくは本当にオリジナルは素晴らしいのかがいつも曖昧ながらも、僕はオリジナルの方に軍配をあげていた。
多分、自分にとってのオリジナルは失われものとして体験できるから価値があったという単純なことなのだろうと思う。それでも、日常の中でマイルスのズートスーツ、コクトーの細いネクタイ、ロリンズのカルマンギアなどに日常で触れることはない。日常がいかに退屈で狭いものかと教えてくれたのは未来ではなく過去だった。
小学生の頃から、過去に憧れた。未来がどうなるという話も、ノストラダムス程度なら興味を持ったが、それ以外の空飛ぶ車やら、宇宙に住めるようになる未来の話は興味が持てなかった。それよりも何が起きていたのかに関心があった。これから何が起きるのかにほとんど興味がなく、何が起きたのかに興味・関心を抱いていた。

世界の過去が今でも知りたい。時間は奪うことしかない。それよりも時間が過ぎた後にこそ僕の居場所があると思う。
マシだった時は、過ぎた時間と向き合えること。既に死んだ人々が進んだ轍だけが自分が生きている世界の退屈さから救い出してくれるものだった。

フィリップ・K・ディックの『父祖の信仰』という短編はそうした時間の暴力、化け物さ、人類と何ら関係を持つべきでもないような存在が世界を支えている不整合を記述していたように思う。あの化け物が「いつでも君を殺すことができるが、そうしない」と語っていた、あのパーティーで出会ってしまう下りは、時間との対話を描写しているんじゃないか。

自分が何から愛=世界がそうである理由、根拠を受け取ったのか少しづつ思い出し、書いていきたい。


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