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#21

日本、特に東京の夏は昔から色々とある。
お盆、終戦、震災など記憶にまつわる事柄がとても多い。
自分が直接に経験もしていない様々な記憶が身の回りで囃し立てる。

あるひとは勉強とは自己破壊だと言っていたが、僕にとってそれは哲学そのものだと思う。
哲学の勉強をはじめたあの頃に自己破壊に陶酔していたように思うが、それは自己破壊という経験がそれよりもう少し前にあった。
その経験は音楽だった。
高校時代に音楽、特にジャズにのめり込んだとき、自分が好んで聞く演奏者たちの多くは既にこの世の人ではなかった。
それがむしろ当たり前で、生きている人の作ったものにほとんど興味がなかった。聞いてもリアリティがなく、何かうっすらと霞がかった、ぼんやりとした感覚しかなかった。もうすでにこの世の人たちではない奏者の演奏だけがなぜか身に刻まれる音を感じることができた。なぜだったのかはわからない。単純に録音状態のせいだったのかもしれない。クリアーであればあるほどぼんやりと感覚していたように思う。

自分とどうしても時間的にも、物理的にも結びつけようがないような過去の偉人たちがつくったもの、考えたことに触れてようやく世界があることの実感を持てたのだと思う。
それほど同時代のものや周囲のいかなるものにも関心が持てずに10代と20代を過ごしていた。
今自分の身の回りにあるいかなる人や建物や飲み物、衣服も過去のものには敵わない。自分が今生きている社会はフェイクであり、パロディに過ぎない、過去にはもっと素晴らしい時代があり、今はただその模倣にすぎないような人やモノに溢れた世界を生きているんだから、未来などは割とどうでもいいという感覚を持っていた。
そんな自分が教育などに関心を持つのも不思議なことだ。実際、未来の子どもたちがその時どうなっているかなどには余り関心もイメージもない。それは愛情がないとか想像力の問題ではなく、身体がそこに伴わないのでいくらでも何でも想像できたり、言えたりしてしまうからリアリティが湧かない。
世界へのリアリティをほとんど持つことなく育ってしまった人間は、「だまされないもの」。だからさまようことになる。

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