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#18 教育現場への哲学の導入について①

今の自分が学生だったら学びたいこと

学校学校は教育のシステムの一つではあるが、これほど学校が全国に普及した日本のシステムはやはりすごいことだと思う。地域に隈なく(最近は統廃合があるけれど)設置され、誰もが基本的には通うことができる仕組みを作れたことは、本当に先人たちの偉業だろう。
誰もが学校がこうあったらいいと一度は夢想したことがあるはずだ。誰もが利用する銀行がこうあったらいい、などと考えることは少ないだろうけど。
誰もがそう考えたことがあるはずで、さらに日本全国に数多とあるのにも関わらず、学校ほど「変化」「多様性」という言葉が似つかわしくない場所もそうそうない。もちろんそれは一律的な質の担保という側面もある。
個別的で、協働的な学びが喧伝されるからこそ、その中での一律的な質の担保ということは非常に重要になってくるだろう。
一律的な質の担保はどういう観点で、と言えば僕はやはり学校を卒業してから、基本的には親元を離れて自立して生きる術で提供される授業になるだろう。よくこの手の話でデジタルのスキルなどがすぐに挙げられるが、その多くは企業勤めを前提にした「社会人」の育成であって、それが果たして「自立した人」なのか随分と怪しい。むしろ真逆なんじゃないか、と。自分は主には「お金」「哲学」の2つなどではないかと思う。

「お金」

まず、お金については多くの人がこれまで散々してきたので改めて指摘するまでもないし、既にいくつかの学校でも金融の授業などを実施している学校もある。まだまだ少ないとは思うが、お金の原理から管理についての話はデジタルのスキル以上に重要な知識だと思うので是非ともこれは体系的な学習が必要だと思う。お金とは何か?という古い問いから、経済の基本的な知識と現代の経済的な仕組みを学び、実際に自分のお金の管理をやってみるなどの実践をぜひ学校で教えて欲しいと思う。これはまず自立することに欠かすことができない知識であり、大人になって多くの人が直面する問題もほとんどこれにまつわるものだ。その割に、学校ではほとんど語られることがない。

「哲学」

2つ目の哲学について。
哲学の定義は色々とあるが、一旦ここでは「知ることを喜びとする技術」としたい。この技術こそが、究極的には千葉雅也氏のいう意味での「勉強」であり、自分を生きながらえさせる技術じゃないかと思う。もはや知ること、勉強することがなんらかに役立つこととしてしか価値を認められなくなった今こそ、哲学が提供する「知ることを喜びとする技術」、知ることの享楽が人には許されていることを教えて欲しいと思う。これまで何度も述べてきた、今後の日本における研究分野の均一化などへの歯止めとして、中学校や高校などで勉強そのものを考え、知ることの喜びとしての哲学を教えて欲しいと思う。
昨今流行りの哲学カフェや哲学対話などでも良いとは思うが、どちらかというと「制作」「表現」などの実践と絡めたこの学びを進められたらと思う。
というのは、昨今の哲学ブーム(数年前ぐらいにやたらビジネス書などが出ていたアレ)をみていると「使える哲学」と強弁している節がある。一方で、日本の大学での哲学が伝統的にはほとんど哲学者研究 or 哲学史研究が多くを占めているように思え、それは使える哲学と謳うことの対局にあるとも言える。しかし、そのどちらも結局は「哲学者の考えたことをほぼそのままに受け容れている」という点でほとんど同じような前提にある。
哲学者の考えを、別の哲学者の考えと照らし合わせた哲学研究というのも、それはそれで価値があると思うが、それはもう知る喜びを知っている者だけが楽しめることであって、多くの人はそうではない。哲学カフェのような、自分の身近にあることや己の内面にある疑問などを発露させて議論し、考えることも結構だけれど、言葉だけが本当に哲学の分野なのだろうかと僕は疑問に思う。20世紀以降、精神分析が提供してきた知見はやはり臨床経験に基づいており、それはこれまでの哲学の潮流を大きく変えた。実際、哲学はその時代、その文化や社会において人類が経験してきたことの中で知る営みを続けた結果として発見されたこと、考えられたことが蓄積されてきている(世界大戦、ナポレオン戦争、革命、インターネットの普及など)。だとすれば、ある程度の歴史についての知識と共に学ぶべき哲学という側面があるのではないだろうか。つまり彼ら哲学者がどういう経験に基づいてそう考えたのかの背景も含めて学ぶ哲学研究のようなプロセスと、それと対比した学習者自らの経験に基づいた知ることの喜びに軸足を置くべきだと思う。そのまま無条件にある問題や疑問に対して「その悩みに既にカントは答えています」と哲学者の言が印籠のようになることは決して哲学的ではない。
逆に、「哲学は疑うことから始まる」とする古典的な哲学の説明に対しても、疑わしいと思ってしまう。よく哲学カフェの対話などで「なぜ」を問いながら改めて考えてみるという形式がとられたりするが、その問いは果たして本当に当人にとってどれほどリアリティがあるのか僕は疑問に思う。確かにソクラテスはそうしたかもしれないが、僕はあの形式だけが哲学の唯一の出発点だとは思わないし、「疑う」ということと人に問われて答えられなくなるということは別のことではないだろうか。危惧しているのは、思考実験のような言葉遊びや概念操作が哲学の学習、実践とされてしまうことだ。ファッションとしての哲学、例えば問いをずらし、そもそもを問う手法などはこうした実践で身につくかもしれないが、このスキルは哲学だけの特権ではないし、むしろビジネスの現場ではこうしたスキルを持った人間で溢れかえっている。コンサルなどの基本的スキルだから。そうした人間を増やすことが教育現場に哲学を導入する目的だとすれば随分と浅い。
僕は、これほど情報に溢れかえった世界において数多あるそうした情報をトランプのカードのように、自分の持ち札として使えるようになることが哲学だとは思わない。対話ももちろん大事だけれど、他者を通した自己との対話、自己の発見といった自己を対象化するプロセスにこそ力点を置きたい。
重要なのは、やはり文脈なのだと思う。哲学的視点、哲学が前提にしていることがひらけてくるような文脈は、それぞれの生活の中にあるのだと思う。常識や社会的通念によって固定化され、透明となった文脈をあらためて問い直すことは、哲学者の言葉よりもまず自分にそのきっかけとなる契機が必要になるはずだ。
ではその普段は透明で見えない私の枠組みとしての文脈をどう対象化するのか。それは、言葉はもちろんだけれども、やはりここでは何かものを作ること、表現することがもっともそれに適しているように思う。

やはり長くなってしまったので、この制作の哲学についての話は次の回にしたい。

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