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#28 Perfect Days - Lovely Days

昨日はPerfect Daysについて書いたけれど、今日は『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を娘と見に行ったこと。
自分は特にみたいとは思っていなかったけれど、パートナーの親戚が亡くなり、母親が心配で実家に日帰りで下の娘を連れて行ってくるから二人で映画でも見てきなと勧められたので。パートナーはなぜか一人で去年の11月あたりに見に行っていた。たぶん、見て欲しいと思ったのだろう。
昨日はPerfect Daysを見て帰ってきて、とても疲れていたのもあってここ最近の上の娘への苛つきが最高潮に達してしまい、たびたび小言をぶつけてしまっていた。
その翌日の今日ということもあり、自分としては二人になるのが正直、苦痛なこともあった。鳥羽和久さんの本などを風呂で読んだ影響もあって、自分自身の欠如をそのまま突きつけられているようで上の娘といる時間が辛く感じる時がある。
上の娘は鬼太郎が好きなようだ。怖い話や妖怪が好きということもあって。映画自体は、あまりプロットの雑さが気になり、水木しげるが脱色されて使われている感じがどうしても遠目で見るように映画を鑑賞してしまっていた。娘も本当に、というのは僕が想像するような「のめり込む姿」などは全くなく、本編の冒頭の数分を犠牲にしてまで買ったポップコーンの減り具合が気になっているようだったし、特段心奪われているような様子はなかった。
ラストシーンや、グッとくるような良いシーンはもちろんあったけれど、その時でさえ娘は僕の顔を伺ったりするのがとても気になり、親の顔色を伺う素振りが苛立たしさを刺激してくる。その時に気づいたけれど、僕はきっと娘の前で感情や内面を出すことにとても怖さを感じる。それがどう受け取られ、彼女の人生に影響し、僕の存在価値が規定されてしまうことにとても恐怖を感じているのだと思う。
そう考えると、昨日のPerfect Daysの主人公の無責任さ、仮説である「徹底的に他者との責任を回避して、社会から取り残されたような人々の生活に身をやつしてみて完全無欠の存在であろうとする人」というのは僕自身の一側面でもあるような気がしてならない。僕がこんな仮説を持ったのもそれは単純に投射なのかもしれない。でもそんなバカバカしい心理学の稚拙な捉え方でいいのか?

娘といる時にあくまで何も迷いもなく、戸惑うことのない父親、大人であろうとしながら、そう安易には居られない状況を娘が突きつけてくることが恐ろしく、辛いのだろうと思う。過去というものをほとんど持たない彼女と僕の間にプロトコルはない。その足場のない中でコミュニケーションを取ることは、自分の言葉や表情や身振りがその場で完全に干上がり、瞬時に水分が蒸発していく。カラカラで脆くなった僕の言葉や表情が吹かれてすぐに砂になって飛んでいくように思う。


あの映画の最後のFeelin'good は Bill Withersの唄うLovely Daysであったなら、タイトルもまたまたそうであったら、気楽でいられたのにと思う。もちろんラストシーンの役所の演技、あの涙や微笑みと合わないだろうと思うけれど、昨年末に亡くなった友人の人生を思うと、他者の人生への眼差しは Lovely Days という枠組み、フレームでしか捉えられないんじゃないかと思う。そこに Perfect を持ち込んだ途端に、他者の人生を自分の人生の餌に、糧に、食い物にしているような気がしてならない。生、一日、時間にPerfect と形容できる人などは、もはや人ではない気がする。やはり、あの映画には何か、どこか非常に受け入れ難い「傲慢さ」が漂う、というかヴェンダースもそれを描こうとしているように思えてならない。

久しぶりに聞く Brian Auger の Straight Ahead はとても良い。ジュリー・ドリスコールがいなくとも、クールだ。  

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