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#16 子どもと大人の「主体」

ここ数日、何度書いても書き切ることができずにいた。「締める」ことが出来ない、というよりも「締める」ことにこだわり過ぎている。

最近のミーティングで話題に出ていたことで思い出したこと。
教育や学びの分野でよく聞く「子どもがまん中」「子どもが中心」。
この言葉にどうしても僕は違和感がある。
その周辺に大人がいるという構図。
それを口にする人は、周辺にいる大人たちの存在、主体としての大人をどう考えられているのだろうかと疑問に思う。
ミーティングで出ていた話題は、ある県の施策で子どもの教育や学びについて意見を聞く県民意見交換会を開催するという。その施策に関わっているメンバーの方が、その観点がどうしても「子どもたちが」と子どもを主語にして考えていることは結構だが、それならなぜその県民意見交換会に子どもが参加していないのか。むしろ子どもたちから意見を聞くということをやればいいのであって、主語を子どもにして語るのは大人たちなのであれば、それは大人たちが見えている限りの子どもたちを登場させているだけであって、決して子どもそのものが中心にいるわけではない、と。そんな話が出ていた。
子どもを中心、子どもが真ん中と言った途端に、子どもの変調、わかりやすい例でいえば登校拒否などの原因を周囲だと自認した大人たちが子ども自身の中に寄ってたかって探ろうとするとする構図が生まれやすいからだ。あるいは、自分たちは環境側だと見なす大人たちが互いに責任を押し付け合う構図(家庭 VS 学校)。いずれにせよ、この「子どもが真ん中」という構図は、原因ー結果、能動/受動の枠組みにとらわれがちになる。
それよりも、子どもだけでなく大人も、変調は何らかとの関係、あいだにあるのであって、どちらか一方にあるのではない。子どもと学校との間に、「登校拒否」という現象が起きているのであって、子どもを登校拒否の主体として見なすことは結局は原因を子どもに押し付けている。

何よりも、僕の最大の違和感は周囲の大人たちの主体を不問に付していることがひどく欺瞞的に思える。子どもを中心に考えた振る舞い、施策、創意工夫、仕組み、何でもいいのだが大人たちの設えたものの免罪符となっていることに無自覚な点が非常に気になる。
不動の点Pとしての大人たち、もはや自分たちの主体は問われず、全てを子どもに帰する精神状態は果たして正常と言えるのだろうか。たとえその対象が自分の子供であっても、僕は人がある存在のために全てを捧げることは、恐ろしい暴力を招く予兆のように思う。それは天皇制の構図そのものであって、人であって人でない、生まれながらに意志も欲望も個人の歴史も認められない存在としての天皇を支える人々の熱狂、全体主義的な傾向、主体であることを回避する快楽がそこに見え隠れしているように思う。
そういう意味で、当事者という言葉も非常に気をつけて使わなければならない。子どもは僕ら大人と同様に決して純粋な存在でもなければ、無限の可能性に溢れた存在として周囲が勝手な期待を何でもかんでも投げ込んで良い品のいいゴミ箱のような存在ではない。

いまの彼女に必要なのは、依存をスマホ以外のものに広く分散させ、自分の人生を生きている実感を取り戻すことです。その時に彼女の力になるのは、何か言いたげな表情で彼女の動向を監視する親ではなく、彼女といっしょになって世界の面白さを味わう親です。勉強をがんばる態勢を整えることより大切な何かを、大人こそが探り当てる力をつけることが必要なようです。

スマホを触ってばかりの中学生の娘に注意し、ケンカの毎日 鳥羽和久さん「生きている実感を取り戻させて」|エデュアお悩み相談室|朝日新聞EduA (asahi.com)

中学受験を終えて「燃え尽きた」娘さんを見て悩む親への回答として、「勉強をがんばる態勢を整えることよりも」親が「彼女といっしょになって世界の面白さを味わう」ことを勧めているのは全くその通りだと思う。人にこうあって欲しいと願う時、その人との関わり方を考えてみる。その時、先に何かを願う主体が、対象と共に働きかけることがある。そこにこそ、子どもという主体と共に親という主体が同時に生まれるのであって、子どもを傍観し、あれこれ安全な位置から操作しようというポジションからロボットが起動するように(教育界隈が大好きな)「主体的な子ども」がむくりと立ち上がるのではない。

だから、子どものことを考え、より良い状況をつくりたいと思う私たちは、そう思う自分たち自身の主体を問わなければおそらく進むべき方向を見誤っているのではないだろうか。

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