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#27 再開 Perfect Days 1

年末が差し迫ってきた頃に友人が亡くなった。
彼女とは、家が近所でもあり、仕事も何件か一緒にやり、4〜5年ぐらいの付き合いだった。余りにも若い歳での突然の出来事は、生前同様に周囲に大きな衝撃を与えた。亡くなる2日前まで普通に打ち合わせをしていたという人もいたし、今後のスケジュールも詰まっていたようだった。
割と身近な僕らはこの1年半の間、うっすらと頭ではわかっていながらもそれでもまさか、そんなことは今日明日には起こり得ないと思って彼女と過ごしていた。このことはまだうまく言葉にできずにいるが、言葉にするよりも、僕は自分の生の中にどう埋め込み、近い未来の中で僕の体の中からぽっこりと浮かんでくるのかに関心がある。


今日は映画を見てきた。
娘たちを保育園や学童に送り出した後、いつもの朝の家事をこなしているとパートナーが突然に「50分後なら間に合うかも」と言うので慌てて支度をして渋谷に向かった。
久々に彼女とのデートのような、2人の時間だった。娘たちがいると話したいことが話せなくイライラとするのに、2人になるとほとんど会話らしい会話もない。

Perfect Days

話題になっている映画だし、『パリ、テキサス』で大好きになったヴェンダースの作品。
映画を見終わった後にランチで入ったお店は、昔から大好きなベトナム料理屋にて。でも、コロナ以降は土日などに行くと厨房もホールも1人づつとなり、全く回っていない様子で三品オーダーをして食べ終わったのは1時間半を過ぎていた。1品出てくるまでに悠に20〜30分ぐらいづつはかかっていた。
お腹は満たされたのか、何を食べたのかもよくわからなかったけれど、パートナーとこの映画について話したことをいくつか書いてみたい。

やはり評判通り、渋谷のトイレをしつこく見せられる前半部は非常に苦痛だった。海外からきた人を利用して人が入るとガラス壁が遮蔽される機能を見せびらかしたりなどは正直、安っぽいCMのようだった。
ただ、主人公の妹が迎えに来たシーンはとてもヴェンダースらしいと感じたし、そこだけは唯一確かに小津っぽいのかもしれないと感じる、奥行きのあるシーンだった。
でもパートナーと話していて気になったのは、妹が「まだトイレの掃除をやっているの?」と尋ねるセリフ。それは「そんな仕事をまだやっているのか」というよりも「まだあのアニメが好きなの?」のような、主人公の欲望を欲望について尋ねているように聞こえた。その違和感が自分はどうしても拭えなかったけれど、パートナーが主人公の住むボロボロの古いアパートには外階段もあるのに、なぜか彼の居住する部屋には内階段もあったことを指摘していた。確かにおかしいとは思っていたけれど、最初のシーンで早朝にドタドタと結構な物音を立てて階段を登り降りしていたシーンなどからすると、あれは隣に誰も住んでいないんじゃないかという話になった。確かに、自家用車の駐車も、自転車も何も管理されていないような場所に無造作に留めている感じでもあり、他の住人の気配が全く感じられなかった。そして、内階段があるなんて言うのはあれは大家の部屋なんじゃないか。だとすると、主人公は社会的に底辺のような生活をしているようでいて、あれは全く家賃もかかっていない、土地も物件も所有している身分なんじゃないかと思えてきた。
そうなると、映画のキャッチコピー「こんなふうに生きていけたなら」はあれは誰が発したセリフなんだろう。あれは、映画をみた(ビジュアルのキャッチコピーなので宣伝なのだから「これからみる」)私たちのセリフを先取りしているのかと思っていたけど、あれはやはり主人公のセリフなんじゃないだろうか。「こんなふうに生きていけたなら」と最後に目に涙を滲ませながら微笑み、ニーナシモンの唄うFeelin'goodを聞く主人公がそれまで出会った人々に感じたことを表現したセリフなのかもしれない。
彼は、父親となんらかのことがきっかけに疎遠になり、「もう昔とは違う」から会うようにと勧める妹の発言を遮るように頭を振って拒否していた。主人公は、父親ばかりか妹も拒否しているようだった。たぶん、運転手付きの車に乗るような妹の世界、その基盤となる父親の世界との接続を拒否してあの古いアパートに住んだのだが、きっとあそこは誰も住んでいない自分だけの所有物、自分だけの世界なのだろう。
それを裏付けたのは、とても穏やかで無口な主人公がトイレ清掃の雇い主だかに欠員の補充を訴えるのにやたらと感情的で、怒りを露わにしていたことだった。「3回も電話したのに出なかった」とものすごい形相で怒っていたことも、違和感がある。どう考えても社会的底辺の仕事につかざる得なかった人としての怒りではない。
この映画の主な受容のされ方は、「大事なのはお金じゃない、生活の中で見つける些細な楽しみだ」のようだが、主人公こそは、まさしくそうした人の姿に憧れる「持つ者」=社会的基盤が保証されている者なんじゃないか。
僕はこの映画を見て、ミレーの「落ち穂拾い」を思い出した。あの絵画の目線は明らかに農民ではない生まれと育ちの人による憧れの眼差しだ。貴族であるミレーでしか描けないような、貧しい農民たちへの眼差しを絵画にしたのだと思った。もちろん、ヴェンダースがそうだというわけではなく、あの主人公は「大事なのはお金じゃない、生活の中で見つける些細な楽しみだ」と「生きていけたら」と思いながら暮らし、家族ともつながりを絶ってみたものの、やはりそうは生きられないと気づいたのが最後のシーンだったんじゃないか。

以下、違和感を覚えたシーン

  • 妹が「まだトイレ掃除をやってるの?」と尋ねたこと(仕事のことを尋ねるニュアンスじゃない)

  • 姪が押しかけてきた時に主人公が仕方なしに寝ていた1Fの部屋にはゴルフセットなど不相応なものが仕舞い込まれていた(いつ使ってたの、というか誰の?)

  • 雇用主?に対する怒りが度合いがちょっとキャラクターの傾向からは逸脱している(3回電話したのになんで出ないの!と第一声に怒鳴るとか、する??)

  • 自炊しない&カップラーメンが放置され過ぎ&ほとんど外食(お金に困ってたらこんな生活する?)

などなど。この辺りを整理してもう一度まとめてみたい。

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