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#22 フリー

ご自由にお書きください。

人のつくったものは全て、その人が世界をどう捉えているかを表現している。
そして、つくったものそれ自体が作り手に世界はこういうものだと、その製作物の置かれた環境(作品と他者との関係)において語り出す。その語りは、作り手にまた別の世界の可能性を語ることがある。そして再び作り手の行為の可能性が開かれる。
哲学は、この制作物の語りを聞く技術、そこから作り手の行為可能性を開く技術になるのではないか。なぜなら、哲学こそが「知ることを愛する」=「知ることを享楽する」ことで、それは制作物を分析することではなく制作物とともに世界に開かれる語りとなるから。

身体内部の潜性的な力が世界と応答することで制作物となって現実化する。インゴルドは、陶工にとってのろくろ、凧を飛ばす人にとっての凧、奏者にとっての楽器を変換装置と呼んだ。所作の身体的な性質や流れを物資的な流れへと登記変更をおこなう、と。
この過程を各個人が独自のやり方で描き出すための概念、言葉を探す技術を哲学に期待することはできないだろうか。
自分の身体が世界に浸み出し、世界が自分の身体に浸み込む過程を描くような反省的手続きを哲学によって構築できないだろうか。
しかし、なぜそれを描く必要があるのか?
自分にとって最も内密なこの政策の過程を本来的に他者である言語によって描くことが、制作過程での体験とはまた別に世界と照応することになり、それが自己を他者として経験し、措定するような自己破壊につながる可能性があるから。ここでの教師の役割は、予め設定された成長を確認するのではなく、学習者の自己変容、変身を促す環境を整えることにある。

具体的には、制作過程の記録。文字や映像、あるいは録音技術を使っての言葉などによる記述。伊那小の掲げる「今日という一日は詩たりえたか」のように、その制作過程を自由連想的に、言葉のギリギリのところまで、言葉が躓くところのギリギリで振り返ってみること。


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