#23 日記、週末

今は日曜の夜
10年前ぐらいは最も好きな時間で、今もすごく好きな時間。
でもその理由は全く違っている。
10年前は、ひたすらに月曜からどう仕事をするかを考え手を動かし、人よりも先んじて日曜に仕事をしている自分の姿に浸っていた。それはそれで本当に良かったとは思っている。ああいう時間の過ごし方が今も続いていれば良かったのにと思う。

土曜日

昨日は、友人が家に遊びに来ていた。人の家のキッチンでも手際よく美味しい料理をつくってしまう器用な友人。デザイナーである彼女がつくるデザインはいつもそつなく、こなれていて、誰もが抵抗感なくすんなりと読んでしまうようなものをつくる彼女。顔立ちも綺麗で、服装も小綺麗で北海道出身の人特有の、「地方」色がない存在。それでいて、それだからこそ、つかみどころもなく彼女は自分から余りプライベートな話をしない。美味しいお酒と料理が大好きな彼女のことが、娘も大好きでまとわりついている。
その時にふと気がついた。僕にとってうちの娘はとても鬱陶しい存在だと。娘さえいなければこのつかみどころのない彼女の何かを掴んだり、踏み込んだりもできるのに。どうしても話がここぞ、これを聞いてみようと話した途端に娘が会話に割って入る。いつもの「見てみて」と割って入り、話の腰を折る。
以前から薄々気づいていたものの、僕は娘が生まれてきてからと人生が蓋をされたようになっていた。全ては娘のせいだと思いたい。娘がいるせいで、何もかもから僕は疎外されていると信じたくなっている。
友人が帰ってからの夜は耐えられずに、11時頃に床に就いた。眠くなったというよりも、起きている時間が耐えられなくなってきたから。僕自身のかつての父親のように己の存在を持て余し、その原因を後からこの世界に唐突にやってきた娘に求めていた。そんな時間が耐えられなくなって寝たのが昨日。

日曜

そして日曜。つまり今日。朝から家族とどう顔を合わせていいのか分からないと思いながら目が覚めてきていた。家族たちは先に居間で朝ごはんを食べ始めているらしい。この前日に、同じような状況だった時に妻が突然戻ってきて子供たちを置いて布団に潜り込んで「コーヒーを淹れて」と言うのですぐに布団を出てコーヒーを淹れた。自分のパンも焼きながらコーヒーを淹れ終わって、妻を居間に呼んだ。彼女は低く暗い、土曜の朝に似合わない声で「朝ごはんは?」と聞いてくる。この時、とてもしまったと思った。何がしまったかは分からないけれど、何かしら間違いを犯した。もうこれは自分は何も手の施しようがなく、台風のように過ぎるのを2〜3日は待たなければいけない状況だ。どうやら、妻は朝ごはんを食べていなかった、「コーヒーを淹れて」の中には朝ごはんも準備してくれが含まれていたことを今更知った。僕よりもずっと早く起きてお猿のジョージだかよく分からない海外のアニメをずっと見ている娘も朝ごはんを食べてないらしい。一番遅くに起きた僕だけが朝ごはんを貪るこの惨めな状況。自分のことしか考えられない「男性性」にあぐらをかいている土曜の朝。もううんざりとした。またか。
そして日曜。つまり今日。家族が朝ごはんを食べたのかどうかをキッチンのシンクを見て念入りに確かめる。新しい洗い物はない。彼女らを見ると朝ごはんらしきものを食べているので決定的だ。大丈夫、僕はコーヒーを淹れて自分のご飯を用意してもいいらしい。そんな一日の始まりだった。

起きたのが8:30頃で、10:00からミーティング。トラブルがあって、11時で自分は切り上げる。トラブルと言っても僕にではなく、オンラインで同時視聴しようとしていた映画がうまく画面共有されないとのことで11時で切り上げて居間に戻ると家族はいつの間にかいない。どうやら買い物にでも行ったらしくLINEで聞く。買い物に行くのなら一言ぐらいLINEなどでそっちから送っておいてくれればいいのにと思いながらもう時間は12時が近くなる。
面倒なお昼をどうするかのやりとりをした後に、近所のいつもの美味しい蕎麦屋に行く。そこで蕎麦をすすり、妻は明らかに僕が日曜の朝からミーティングをやっていた間に自分が子供たちを見ていたという貸をつくったと思っている。僕はその対応として、下の娘の蕎麦を食べさせながら、自分のとろろそばを処理する。味はもうほとんど分からない。自分の心の底がイライラとしながら、そこから抽出されたドロっとした黒いものを胃だかなんだか分からない内臓に感じる。白くて柔らかなとろろは喉越しのいい蕎麦をさらに滑らかに内臓に運んでいく。そこまで滑らかでなくていいのに、僕はそこまで望んでいないのに。

午後はいつもの通り、妻は昼寝。僕は子供たちが飽きないよう、それでいて有意義に、意味のある時間を過ごさせようと、サイエンスドキュメンタリーを見せようとしたり、なるべく遊び要素のある勉強などをやらせようと企んで失敗して過ごす。特に下の娘などはまだ1歳になったばかりなので僕とは表面上でしか接点がない。僕がかわいいと思う部分は彼女にとったら何も意識のしようがないし、数年経てば残りもしない。すれ違うこともないような二つの身体があるだけの空間と時間。
コーヒーが切れたので恵比寿のいつものコーヒー屋に買いに行く。上の娘を近くの公園で遊ばせ、帰り道では自転車の後ろの座席で寝てしまう。

どことなく不機嫌な妻をなるべく見ないようにし、それでいて彼女のずさんな家事を目にしながらイライラとする自分。洗濯したばかりのキッチン用の台拭きやタオルの上に脱ぎ捨てられている妻のデニム。これは今日はいたもの?と聞くと「2時間ぐらいしか履いてない」という答え。この噛み合わない、というか噛み合いを通り越して食い合いのような会話。うんざりとしてくる。

そしていまこの時間。
日曜討論では、研究力の低下をテーマにしていた。横山広美さんという研究者の方はとても冷静に、物静かに研究力の低下を嘆くのであれば研究をさせてほしい、どうかそのための環境を奪わないでほしいと訴えていた(実際はもっと論理的に現状を説明していた)。片や、中空何某という証券会社出身の者はひたすらに競争力という観点で全てを語っていた。いつもの、自分たちのようにストイックで厳しい現実を生き残る努力をして早く私たちのようになるべきという企業人特有の話法だった。大学というよりも、実際は誰もが教育なんていうことや、未来なんていうことを信じちゃいないし、実際には今成功した私たちがどう満足できるかが重要なんだと彼女の表情は物語っていた。

Yussef Dayes の Black Classical Music が本当に素晴らしい。

僕の大好きなRoland Kirkの影を感じる。あの友人とあの大好きな近所のワインバーでこのアルバムを聞いて、店主も交えてずっと話していたい。そんな素敵なアルバムだ。早くLPを買いに行こう。

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