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無意識的な「怒り」からの逃避

 先日、少しの時間、知り合いの子どもたち(小学生以下数名)と遊びながら時間をつぶす機会があった。そのときに、子どもたちが各々の考え方、価値基準の違いから、お互いに理不尽を感じ、諍いを起こしてしまった。また、お互いに非がある行動があり、それをその子たちに伝えてあげなければならなかったのだが、普段のクセから、苦笑いしながら話してしまったり、多少の必要な怒りを伝えてあげることができなかった。この時に、自分の至らなさ、精神力・体力の無さ、真摯に向き合えない部分を反省したが、「怒り」を意識的に避け続けている自分に気が付いた。

 子どものころは、多くの人が、感情のコントロールを鍛えている途中なので、各々の思い思いの感情をぶつけあっていくのである。年齢を重ねていくにつれて、だんだんと泣かないようになっていく。なにかあれば泣く、という状態から、めったなことがない限り、泣かないようになっていく。怒りも同様である。自分の思い通りにいかないことが多いことを知り、それに慣れていくことで、めったなことがない限り「怒り」が発生しないようになる。あるいは、内心強い怒りを持っていなくても、きつく、冷たく当たっていくことでコミュニケーションをしていくような人も一定数いるだろう。  それに対し、わたしの場合は、かなり積極的に自他の「怒り」の感情を避けていることがわかった。相手からバカにされたり、よくないことをされたとしても、不快は感じても、完全に「怒り」として火をつけたり、表に出すことはないのである。ノーダメージではない。内臓(心臓付近の鈍い痛み)を生じることが多いが、わかりやすい形で「怒り」となることはなく、何とも言えない感情が黒く渦巻き、自分の内面にしばらく残り続けるイメージである。自分の怒りに対しても押しとどめようとするし、他人の怒りは発生させないようにベストを尽くすことが多い。相手の琴線に触れない選択肢を必死に探すことが多い。出会って間もないの人の場合には、人によっては気を悪くするような話題は極力触れないし、面倒ごともできる限り自分が積極的に受け入れる。そして、その人と長く話せるようになっていくことで、相手が喜ぶ話題、相手の良くない感情を想起させる話題を知っていき、相手が喜ぶ話題にいるときは、その時のノリで気楽に話せるが、相手によくない感情を生みかねない話題には、間違っても流れていかないようにする。瀬戸際の話題になれば、かなり緊張感を持ちながら、普段通りに話すことはできない。力が入って、相手に話が伝わらなかったり、動揺によって、相手の話が頭に入ってこなかったりである。「怒り」や「指摘」の矛先が自分に向きかねないときは、特に緊張感は高くなる。自分に向けられたものでないときも、「怒り」や「指摘」というものが強く自分に突き刺さっていくが、「自分に対してではない」と思っているだけ、自分でコントロールができる。ただし、自分にまっすぐ向けられようものなら、逃げられない。なにかしらの対応をしなければいけない。その緊張感は大きいものである。  自分に「怒り」や「指摘」が向けられなくても、自分の目の前で、他の人がその攻撃を受ける可能性がある場合には、攻撃を受ける可能性があるその人のフォローに全身全霊を注ぐことが多い。その相手が攻撃を受けないように、あらかじめその人に対して改善できるまで付き合ったり、あるいはその人が苦手なところは自分が受け入れることも多い。よく「優しい人だ」「優秀な人だ」と言われることがあるが、この動機が強い原因だろう。

 こうして「怒り」の感情に対しての意識を振り返ってみれば、いかに自分が疲れやすい体質だったのかがわかる。こうして「怒り」からの逃避に全霊を注いでいるからこそ、「怒り」が襲い掛かりかねない状況であれば、自分の「やりたいこと」や自分のケアは基本後回しとなる。人生の重要な選択のたびに、「怒られない」選択をできる限りとってきたし、チームの中で「怒り」に関するトラブルが生じないように、先回りしたり、できる限り動いてきた。こうした動きも、結果的には「相手の望むことを先んじてやっておく」ことになるので、仕事で評価されることも多かった。しかし、自分でも、上司の力を使っても、どうしようもない相手の「怒り」感情や、相手は「怒り」を覚えていても、自分たちが優先すべきはその「御用聞き」ではないので、スルーせざるを得なかったり、結果的には今は対処しなくてもよい場合もある。まさに、自分が最初に適応障害に陥ってしまった状況というのは、そうした「どうしようもない」状況下で、周囲の期待に副うように、過剰に自分で仕事を請け負っていたのである。それを続けている間に、「助けを求める」体力すらもそがれてしまい、家から出られなくなってしまったのである。

 こうした「怒り」を避ける動きは、自分のケアを後回しにし、「助けを求める」ことのハードルもかなり上げると思われる。「助けを求める」対象が、普段の仕事や生活において深く結びついているような場合であれば、特に自分が音を上げることが難しい場合が多い。自分は上司に恵まれたほうで、全然強い圧力をかけたりしないし、話は聞いてくれるだろうとは思っているものの、どうしても「いい顔をしていたい」「相手を心配させたくない、不安にさせたくない」という感情が先んじてしまう。人生の先輩、仕事の先輩におこがましいこととは思うが、無意識的にそうなってしまう。このように、自分の直接の上司・両親などに心配をかけられない感情もありながら、別の理由で、少し離れた他部署の人にも話しかけるのは少し難しい。というのも、相手の状況は全く見えないからである。「自分なんかがお邪魔していいのだろうか」という後ろめたさが抜けないのである。しかし、相手がそこまで負担になっていない、そもそも「そういった人を助けてくれる」ことが仕事である人に対しては、そんな気持ちはあまり生じないように思う。

 ここまで、最近感じた自分の大きな価値基準となっている、「怒り」に対する無意識的な、過剰な逃避反応を書き記してきた。INFP的な特性、AC、エンパス、HSP的な特性や、自己肯定感の低さが垣間見えると思うが、これからも付き合い方を考えていきたいと思う。できる限り「詰み」状態にならないよう、苦手な環境から離れていくこと、また、無意識をできる限りリアルタイムで意識して、できれば程よいバランスで矯正していきたい。二十数年生きてきて全然抜けないので、長い時間付き合っていくことになるんだろう。

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